無責任

いろいろエッセイ
この記事は約5分で読めます。

 どうしてこうもテレビに映る偉い人たちは楽しくなさそうなのだろう? 苦虫をかみつぶしているかのよう、とまではいかなくても闘っている感が画面越しにも伝わってきて、権力や力というものが平安をもたらさないということがひしひしと見て取れる。って無職のわたしのような人間が言ってしまっていいのだろうか。彼らは国のために闘っているんだ。汗水流して働いて国を良くしようとしているんだ。一方のわたしときたらまさに無責任♪ 植木等のスーダラ節以上に無責任で、わたしはサラリーマンという仕事さえもしていない。だから、無責任にさえもなれていない無責任男と言っていい。
 人間はどうすれば幸せになれるのだろう? 力を持てばいいのかな? 力を手に入れていろいろな物事や人々を支配して言う通りに従わせる。そうしたら幸せなのかな? わたしは思うのだけれど、それも無職のスーダラ男の個人的意見なのだけれど、力って強くなればなるほど不幸になっていくんじゃないか、っていう気がする。力を手に入れて、自分自身を強くしていって相手を従わせて屈服させる。それって一見すると強いようだけれど、逆に弱いんじゃないかな?
 歴史を紐解けばもうそれは明らかでしょう。強大な権力を持った支配者はその権力をどのように子どもや家臣などに受け継がせるかってことで本当に大変な思いをする。場合によっては、自分の思い通りにしようとした結果、暗殺されてしまう権力者だっているんだ。
 逆にわたしのような箸にも棒にもかからない一般人は命を狙われるなんてことはほとんどないし、そのリスクは権力者と比べれば圧倒的に低い。ほとんどゼロでしょう、と言ってもいいくらいの可能性しかない。
 力はほどほどがいいんじゃないかな。ほどほどに責任ある仕事をして、ほどほどに権力(と呼べるほどではない権力)を行使して、ほどほどに力をふるう。それで満足できれば何も高い地位とか求めたいとは思わないし、そもそもその必要だってない。
 責任というものは何かの仕事をして、その代価として報酬をどれくらいもらうかっていうことに大きく左右される。1時間1000円の仕事と、1万円の仕事ではその責任も重くなるし、求められるレベルも高くなってくる。逆に時給1万円ももらっているのに2000円くらいの仕事しかしていなかったらクレームが出るのは当然だろう。もっとしっかりやってくれという話になる。
 わたしは時々この無職で無責任なことに物足りなさを感じることがあるのだけれど(時には苛立ちを覚えることも)、無責任で良かったとしみじみと思うこともある。なぜなら、わたしの影響力は微々たるもので、わたしの行動が誰かに大きく影響して迷惑をかけてしまうことがほとんどないからだ。恵み、つまりメリットをもたらさないと同時に損害、デメリットをももたらさない。まぁ、こういう人生は面白くないなどと言ってしまうこともできるけれど、それをわたしは案外気に入っていたりする。誰かを良くもしなければ悪くもしない。それは無利息の普通口座にお金を預けておくようなもので減りもしなければ増えもしない。何かをするためには必ずリスクを負わなければならない。リスクを負わないのに何かを得られるなんてことはない。ヨガだって健康面にものすごくプラスにはなるけれど、一方でやっている時に怪我をしてしまうかもしれないというリスクは承知の上でやっている。読書にしても体をその時間動かさないわけだから健康リスクは負っているし、目が悪くなってしまうかもしれないし、時間だってかかるわけだから損失はある。そういうわけだから、何かを得るには必ずリスクが付き物なのだ。
 だからこそ、できるだけ自分について回る責任は小さい方がいいんじゃないかとわたしは考える。要するに、振り幅の少ない人生ということなんだろう。
 でも、振り幅を小さくしよう、リスクも小さくしようとしてきたわたしの人生だったけれど、思った時にはハイリスクな行動をしっかりと取っているのだから言行一致とは言えないのだ。キリスト教の洗礼しかり、働かないことしかり、放送大学をやめたことしかり、人間関係を整理したことしかり。だからご心配には及びませんよ。
 無責任のお気楽人生を求めているわたしだけれど、肝心な時にはしっかりと無責任どころかしっかりと責任が伴う行動もしている。うーむ、どっちなんだ? というか、人間白か黒かと割り切れるものではなくて、グレーなんだ。白でもあり、黒でもある。そのグラデーションのある地点にいるわけであって、真っ白とか真っ黒とか、そういうわけではない。
 でも、わたしは自分の全財産をルーレットのどちらかの色(赤か黒)に賭けますなんていう冒険はこれからもしないことだろう。無難に、考えて考えてパッとしない手を選ぶんじゃないかって思う。と言いつつも、これはやらねば。今やらなければいつそれをやるんだ、と自分の命すら賭けるかのような行動に及ぶ、なんてこともないとは言い切れない。
 わたしは人生は出たとこ勝負だなって思っているところがあって、その時、その時、自分がベストだと思うことをするしかないと信じているんだ。って言うか、ベストだと思ってそれを信じて賭けるしかないですよね? で、その結果がどうであれ、その時最善を尽くしたのだから悪い結果が出たとしても仕方がないよと割り切るようにしている。祖父母は亡くなってしまって、今はもうこの世にはいない。あの時、別のことをしてあげていたらもっと違う展開があったんじゃないか、などとあれこれ考えることはできる。でも、それをしても亡くなった祖父母は帰ってこないし、その時はそれが最善だと思ったんだ。そして、最善の結果を求めて最善を尽くしたんだ。だから、結果がどうであれこれが最善だったんだ。そう思うようにしている。
 気ままな無責任男の星さん。スイスイスーダララッタ、スラスラスイスイスーイ、とまるでアメンボが泳いでいるかのように生きているように見える。でもね、アメンボだって危険と隣り合わせのように、わたしだって大したことはないかもしれないけれど、極端な話、人間いつ死ぬか分からないからぽっくり逝っちゃうかもしれないし、突然何かが起こって急展開ということだって十分ありえる。だから、無責任男は無責任であることに違いはないけれど、それでも大変なんだ。お釈迦様が言うように、どんな人生を歩んでいるどんな人であっても、その生涯は苦なのかもしれないなって思う。でも、その苦を軽くできたらな~って思ってヨガをやり、食事にも気を付けて、無理のない健康的な生活を心掛けているわけなんだけれど。
 しかし、矛盾するようだけれど、無責任男だって責任は負っている。無責任であるということの責任を負っている。だから、誰しも無責任男に、無責任女なんていないのかもしれないね。も~、無責任という責任を負っているだなんて真面目くさっちゃって。だから、重さはともあれ、みんな自分なりの責任をしっかりと負っている。でも、重さが人によって差がありすぎですけどね。

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました