どうして今ここでわたしは人間なの?

いろいろエッセイ
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 わたしには、というか誰でもそうだと思うのだけれど、何でわたしが今ここにいるのか、ということが分からない。どうしてわたしは牛でも豚でも鶏でも魚でもなく、人として、しかもその人の中でも星大地として生まれたのだろう? 考えていくと神妙というかものすごく厳かな気持ちになってくる。もしも、わたしが牛として生まれていたらどんな生涯を送っていたのだろう? あるいは動物ではなくて星大地ではない別の人、たとえばアメリカで黒人女性として生まれていたらどんな人生を送っていたのだろう? そんなことをある映画を見ていたら考えてしまった。わたしが別のわたしではなく、このわたしとして生まれて、今ここにこうしてわたしとして生きているということ。それが奇跡すぎるというか、何で、何の必然があってここにこうしてわたしとしているのだろう、と考え込んでしまうのだ。牛として生まれていたら、動物として生まれていたら、などと考え出すと自分が植物としてこの世に生を受けていたらなどとも考えてしまう。
 植物って何を考えているのだろう? 頭の中(というか動物などとは違って脳はないけれど)はスーっと透き通っていてまさに悟っている状態なのかもしれない。植物に意識があるのかどうか、植物に聞いても答えてくれないから確認のしようがないけれど、それでももしかしたら高次の意識を持っていてこの世をその場所から超越した視点から眺めているのかもしれない。だから、動物よりも植物の方が優れていた?、なんてことがもしかしたらあるのかも。ない? いやいや、植物って謎ですよ。特に植物が外界をどのようにとらえていて、どう見ているのかってことはね。
 わたしが死んだらどうなるのだろう、とまたもや考えてしまった。天国へ行くのかな? それとも来世があってまた生まれ変わって新しい命として生きるのかな? そのことに思いを馳せる時、わたしは、いや人類は何も肝心なことがわかっていないのだと思い知らされるのだ。どこから来て、どこへ行くのか? この最も初歩的かつ原理的なことがまったく人間には分からない。科学万能の時代になった現代においてもそこは未知の領域であって、誰もそこに立ち入ることはできない(まぁ、いろいろ超能力者だとか霊能者だとか特殊な力を持つ人はいるけれど)。以前のわたしは絶対にキリスト教が言っているようになる、くらいの勢いでキリスト教の死生観を事実として信じていた。でも、もしかしたら来世もあるんじゃないか、という気がしてきたのだ。話が少し、いや、かなり迷信じみてきたけれど、今、ふと去年亡くなった祖父母が今どこにいるのだろう、と気になりだした。もしかして生まれ変わったのだろうか。悟っている人たちではなかったから、輪廻転生してまた人としてどこかで新しい人生を始めたのかな、などとわたしは想像したりもする。もしかしたら、北海道とか、青森とか北の方で今頃生まれているのかも。そんなことはないって? いやいや、分かりませんよ。などとキリスト教からどんどん離れているわたくしでありますが、この神秘というか隠された秘められた領域のことを想像すると、ものすごく神聖な気持ちになってくる。
 人間は死んだらそこでおしまい、なのかもしれない。が、終わりではなく続いているのかもしれない。それは誰にも分からないんだ。まさに神のみぞ知ることであって、凡夫であるわたしなどに分かるわけがない。
 わたしが植物として生まれたら。それもオーストラリアの牧場の草として生まれたら牛にはまれていたことだろう。などとこうした、もしも話をああでもない、こうでもないと考えていると、自分が今こだわっていることとか問題だったりがとてもちっぽけなものに思えてくる。別に目標とか目的が達成できなくても、死ぬまでに実現できなくても、来世が、輪廻が回り続けることを思うと別に大したことではないように思えてくるから不思議だ。少し前から学習意欲がゼロになってやめてしまったヘブライ語も別にやらなくたっていいんじゃないの? というか、今こだわって熱中しているヨガだって些細なことでしかないんじゃないの? やめるにしても続けるにしてもさ。そんな小さなスケールじゃなくて、もっと大きな視野に立ってこの人生を見つめ直して眺めるとき、何だか不思議な心地がしてくるんだ。もしかしたらわたしは前世で江戸時代に農民だったかもしれない。そんなこんなで今、その記憶が消え去っているように感じるだけで、実のところはその感覚だったり、経験したことなんかが今のわたしに受け継がれているかもしれない。
 でも、そうしたもしも話や輪廻の思想自体がありもしないことを人間が空想してきただけだった、という可能性もある。だから、それを盲信するのではなくて、その可能性もある、くらいに受け止めておくのがいいのではないかと思う。
 わたしがわたしとして今ここにいいる。そして、星大地という名前でこの記事を書いている。もしかしたらわたしはタンポポとして生まれていてもおかしくなかった。肉牛として生まれていてもおかしくなかった。あるいは鶏として生まれていたら今頃卵を必死で産んでいたかもしれない。そうしたすべての可能性の中から、人間の男性として日本に生まれて、しかも2023年の5月に生きながらえているのが本当に奇妙キテレツな驚きを伴う不思議なことなんだ。なぜだろう? どうしてなんだろう? なんて聞かれても誰にも分からない。まさに神様に聞いておくれってな話だ。
 こういう風に今の世界やら自分やらを違った気持ちで見つめ直すと、もしかしたら善悪とかそういったものはそもそもないのかもしれないな、とも思う。ただ美しく生きて美しく死んでいく命が、それも無数の命があるだけなんじゃないか。不謹慎にもそんなことを考えてしまう。その命のリズムにああでもない、こうでもないといろいろ難癖つけて価値をつけたり、つけなかったりしているだけなんじゃないか。別に価値なんて最初からなかったんだよ。それは人間の頭で作られているだけの観念でしかないんだよ、と。
 もしかしたらわたしは、いや、絶対刷り込まれているな、これは。人間として生きていくために必要な基本的な信念やら常識やらを小さい時から刷り込まれてきたわけだ。もちろん、それが無意味だとか馬鹿げているなどと言うつもりはない。それはそれで安全に、快適に、心地良く、生存していくためには必要なこと。でも、その観念だったり常識はそう思いこまされてきただけのものではないか、とも思うんだ。役に立つんだけれど絶対ではない。そんな考えがわたしには徹底的に刷り込まれている。
 人間は死んだら焼かれて骨になる。その光景の前で一切の思いなしが奪われる。それこそが本当の無の思想なのだと思う。その無に直面してそれでもイエスさまを信じるのだとしたら、それこそ本当のキリスト教徒なのだと思う。教会に行っているかどうかなんて関係ないし、洗礼を受けているかどうかなんていうこともその際には問われないのではないか。他者の骨を前して、そして自分自身が骨になっていくことを想像しても、それでもこうあってほしいいと思える思想こそが本物の思想だと思うのだ。そして、本物の宗教だとも思うのだ。
 わたしはただ委ねたい。なるように任せてただ死ぬ時には委ねたい。というよりも、委ねるしかない。大きな力。それが神様なのか、何なのか今わたしには断言できないし、これからもこうだと言い切ることはできないだろう。自力で道を切り開いていきながらも、その本当の終わりには大きな力にこの身を委ねていくしかない。ジタバタしても、グチグチ言おうとしてもまさに無力。その時におのずと他力になる。いや、最後には他力しか残されていない。それが本当の他力。

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