大木のようになりたい

いろいろエッセイ
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 わたしを植物にたとえるなら何になるかな。そうだな、こんなこと言うと「星さんたら、また自己肯定感が低いんだから~」と言われてしまいそうだけれど、たんぽぽの綿毛ではないかと思う。綿毛ってふわふわしていますよね。ふわふわ~、ふわふわ~って風の吹くままにあっちらこっちら自分の意志などほとんど持たずに運ばれていく。まさにあれなのです。
 誰かが何かもっともらしいことを言うと、「そうだそうだ」と同意して、また別の誰かが違うことを言うとまたそれも本当らしく思えてきて「こっちの方が正しいのかも」とブレ始めて、で、またそのまた別の人がまた何か言うと「そういう視点もありだな」とあっちにコロコロ、こっちにコロコロと二転三転する。まるでその様子はお空を舞っているたんぽぽの綿毛のようで、とても頼りない。
 これは何も意見などに限られなくて、誰かが自分のことをほめてくれたり、あるいはけなした場合にもあてはまる。誰かがほめてくれると本当に嬉しくなって有頂天になって、今は最高の気分だと思う。けれど、ちょっとでも批判されたりしようものなら、ズドーンと底にたたき落とされてしまう。あんなに人からほめられて気分は絶好調でさえあったのが、一転、最悪の気分へと様変わりする。
 だから、わたしの気分はいつも人任せだった。風が吹くままと言っていい。わたしの気分を良くするためには他の人からの賞賛なり、おほめの言葉が必要で、自分自身の気分に責任というものをまったく持っていなかった。わたしの気分の主導権は自分にはなくて、自分以外の人たちに握られているのだ。
 でも、この不安定な気分の構造が明るみに出されてきて、このままではまずいんじゃないかと危機感を覚え始めたので、変わりたいと思うようになったのだ。
 人の賞賛などの評価といったものは実に移ろいやすい。一時はあれだけほめてくれた多くの人たちが興味関心が他に移ってしまうと、まったくこちらに見向きもしなくなる。そんな気まぐれな人からの評価にわたしをすべて委ねてしまっていいのか。わたしの大切な精神状態とか気分とか心の状態を任せきってしまっていいのだろうか。今ではそれは良くないと思える。やはり、自分の気分には責任を持つべきだと思うし(あんまりべきって言いたくはないけれど)、人の評価に全面的に依存してしまうと実に不安定になってしまうからだ。
 だから、わたしは大きな木になりたい。大木のようにどっしりと構えて多少のことでは揺らがないようになりたい。もちろん大木だって台風が来れば大きく揺さぶられる。でも、根はしっかりと張っていて、そんな台風ごときではびくともしない。どっしりとしっかりとその場に立ち続けていることができるのだ。
 言い換えるなら、精神的な面においては自分の軸がしっかりとある状態だ。生きていれば自分に批判が向けられることもたまにはあるだろう。でも、その批判は批判として受けた上で、それでも自分の考えはしっかりとあって、変わらないところはどっしりと変わらないでいることができる。そんな風になりたい。要するにブレないようになりたいのだ。自分の軸をしっかりと持ちたいのです。
 そのためにできること。今のわたしにできること。ヨガをやる。学びを続ける。しっかりと毎日を生活する。料理をまめにする。文章を書いて自分の意見をはっきりとさせる。お祈りをする。思い付くだけでもこれくらいある。
 とにかくしっかりと生きること、生きていくこと。自分自身と向き合って、自分の内側を満たしていくこと。
 すぐに大木のようになることはできない。1ミリ、1ミリずつ成長させていく。そして、自分自身を大きく成長させていくんだ。
 今のわたしが人からの評価が気にならないと言ったら嘘になる。でも、その評価は評価として置いておこうかなという気持ちになりつつある。大木は人から評価されても、されなくても変わらずそこにひたすら立ち続ける。そこまでストイックにはできないと思うけれど、その変わらずブレずにいるという姿勢からは多くのことが学べる。
 一本の木はほめられても、けなされても、忘れられても一本の木。ただ、そこにある。何だかすごくかっこいいなぁ。強固な美学が大木にはある。
 いつかは大きな木になって、自分の木陰で安らぎを他の人に与えることができるようになれたらと思う。そんな日がいつ来ることやらと思いつつ、1ミリ、1ミリずつ成長していきたいなぁ。これはわたしの人生の大きな目標だ。大木のようになりたい。

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