「いいね」の自給自足

 Twitterをやっていて自分のツイートに「いいね」を押してもらえると嬉しい。何というか、それを見た瞬間、わたしの頭の中ではドーパミンが増えたのだろう。ドーパミン放出ぅぅ。
 そもそも、人間は快感を、快感までいかなくても心地よさを求めるんじゃないかと思う。ありとあらゆる人が心地よさを求めて、日夜いろいろな活動をしている。総理大臣だって、多分あれをやっているのが心地いいのだろう。心地よかったり、幸せだったり、居心地がいいのだろう。でなかったら、やめるはずだし、そもそもその役職につこうなんて思わないはずだ。
 この世界は無数の「いいね」でできていると言っても過言ではないとわたしは思う。自分が何かをやる。そして、それに対して反応が起こる。で、嬉しくなったり、達成感が得られたりして、脳内のドーパミンが放出される。言うならば、みんな快という報酬を求めて日夜励んでいるわけだ。
 Twitterを眺めていると、みんな承認されることを求めている。言うまでもなく、「いいね」をたくさん押してもらうことを期待していて、それに依存さえしている人も時折見かけられる。それがいいとか、悪いとか言うつもりはない。けれど、その他者からの評価に依存する生き方というものに最近わたしは疑問を感じ始めているのだ。
 だったら何で星さんはブログをやっているの? 何でTwitterをやっているの? 何でそれらをやめないの? といった単刀直入な質問が向けられてくるだろう。何でかね。やっぱり、認められたいっていうのがあるんだろうね、としか言えないし答えられない。そして、誰かに必要とされたい、誰かの役に立ちたいっていう気持ちもあるんだろうと思う。
 逆に誰からも評価してもらえなくてもいいと割り切るのであれば、文章なんてそもそも書かないのかもしれないし、書く必要だってないのかもしれない。備忘録的に日記とか書いて、さて一生が終わりました、みたいな感じになる。
 評価。評価って必要なものなのかな? わたしが何かをやる。何かをする。そして、それをいいとか、悪いとかジャッジしてもらう。評価してもらう。それって、その営みって果たして必要なのかな? それが要らないってことになれば、無人島でただ一人、誰からの評価も受けずにただただ生きるというシンプルライフになる。
 評価を手放す。そんな仙人とか聖者のようなことができるのか。
 いつの時代も人々はお互いに承認し合って生きてきた。認め合って励まし合って生きてきた。でも、そうではなくて、評価を手放す。他者からの評価に依存せず、自分自身をも評価しない。
 ここまで書いてきて、いかに自分が評価されることが当たり前の世界で生きてきたか、ということに気が付いた。評価は幼稚園のころから始まったような気がする。複雑な迷路を書ける男の子がいたんだけど、その子はみんなの人気者だった。その迷路が書けるというのをすごいとか評価されていた。そして、小学校。本格的に評価がついて回るようになる。テスト、そして、学期末に渡される成績表。それらはみんな評価だ。いいとか悪いとか、優れているとか劣っているとかの評価だ。こんな調子で大きくなってくれば、評価に依存した評価にズブズブの人間が出来上がってもおかしくないじゃないか。何かをすれば、評価されるのが当たり前で、その評価に一喜一憂する。そして、いい評価が得られないと途端に気持ちが落ち込んでしまう。
 これって自分の気持ちのスイッチを他者に委ねてしまっている。他者がほめたり、いいねと言ってくれれば、わたしの気持ちは上がり、反対にけなされたり、よくないと言われればガクっと落ちる。まるでお天気に左右されっぱなしの無力な人間のようで、何だかそれって悲しく思えてくる。この図式のまま行けば、他者というあてにはならない気まぐれなものの気分に翻弄され続けることになる。それは海の波の上に落ちた葉っぱのようで、波に弄ばれて、上がったり下がったり、上がったり下がったりされるがままなのだ。
 他者からの評価に依存しない生き方とはこれもたとえになるんだけれど、自給自足のような生き方のことじゃないかって思う。自分の生活に必要なものは自分でまかなって、というやっていき方のことなんだ。もちろん、自給自足とは言えども、ご近所づきあいはあるだろうから、ナスをもらったり、ダイコンをもらったりということはあるとは思う。もちろん、ご近所さんから何かをもらえればそれは嬉しい。でも、ご近所さんからのナスやダイコンなどのお裾分けに依存するとなれば話は別だ。そのご近所さんからの野菜がないと生きていけないともなれば、ご近所さんに「必ず野菜くださいね」とか言ったり、果ては野菜をくれなかったら「何でくれないんだ。困るじゃないか!」と怒り出す始末。それでもご近所さんがくれなかったら「何でくれないんですか……」と泣き出すかもしれない。
 他者からの評価に依存するとはこういうことじゃないかって思うんだ。自分の気持ちとか精神状態を他者なしでは維持できない。それって苦しいことだと思う。もちろん、他者が365日「いいね」と言い続けてくれるなら、この生き方もいいかもしれない。でも、他者は「いいね」と思った時しか「いいね」とは言ってくれない。ということは、よくなくても「いいね」って言ってもらう。嘘でも、無理してでも、何が何でも「いいね」って言ってもらうってことにならないだろうか。わたしはそんな「いいね」嬉しくないな。わたしが壊れないように無理してでも「いいね」を言ってもらうのは相手にも悪い気がするし、何だか息が詰まってくるよね。
 だから、完全とまではいかなくても、自給自足に近い状態のほうがいいんじゃないかってね。他の人が「いいね」をくれなくても、生きていけるように自分をしっかりと持った方がいいと思う。もちろん、他の人がわたしのしたことに対して「いいね」で応えてくれたらそれはそれで嬉しい。でも、「いいね」をくれなくても、いや、逆に「よくないね」というボタンを押されてしまったとしても、やっていけるようにできたらいいなって思うんだ。
「いいね」がなくてもやっていける人って飄々としていて、すごく魅力的な人だと思う。でも、そういう人は言うまでもなく、自分の「いいね」や大きな存在からの(神様とか自然とか)「いいね」を大事にしているんじゃないかな。人がほめてくれなくても、評価してくれなくても、自分だけは自分の味方だし、神様だって尽きることのない「いいね」を示してくださっている。「いいね」からしたら、「2いいね」でしかない。でも、その2つの「いいね」こそ、もっとも重視して大事にしなければならないものなんじゃないか。人はいいと思った時しか評価してくれない。だから、それに依存していたら他者に翻弄され続ける人生になってしまう。そして、それは不安定で苦しさにあふれている。
「いいね」のほぼ自給自足。できるようになりたいな。

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