ヨガに何を求めるか

 ヨガ教室に通い始めたわたし。今日で3回目の教室。初回はドキドキして、果たしてできるだろうか、と未知の新しい世界だったのが、2回、3回と回を重ねていくうちにだいたい雰囲気もつかめてきた。そんな感じである。
 何かヨガ教室が終わった後、特にヨガの先生と雑談をしようと思っていなくても自然と話が始まってしまう。というよりは、一応話をしたいとこちらが動き出すのだけれど、話し始めると1、2分のつもりが、それでは終わらなくて、結構話が続いていく。気が付くと、20分くらいはヨガの先生との会話を楽しんでいる星なのである(先生も生徒への義務感からではなくて楽しんでくれているといいのだけれど)。
 ケン・ハラクマ、アシュタンガヨガ、国際ヨガ、と先生の口からヨガに関することが次々に出てくる。と、先生はこんなことをわたしにぽつりと言った。「星さんが求めているヨガってアシュタンガヨガではないかと思うんですが」。何でも話によれば、アシュタンガヨガはわたしもちらっとネットで読んで知っていたのだけれど、ヨガの中でも最高峰と言ってもいいくらいハードなまさに修練のヨガで、先生自身も今までにやってみたことがあるのだけれど、とてもついていけなくて、そのヨガをやったらそれから2、3日激しい筋肉痛と疲労感に襲われて動けなかったらしいのだ。自分がついていけないくらいのやつを生徒のわたしにこれがあなたの求めているものじゃないか、ってすすめているわけで、わたしって見込まれているのかな、とも思った。
 というわけで、他人の言動にすぐに影響されるわたしは、わたしもアシュタンガヨガをやるべ、とか思ったけれど、ふと一歩立ち止まってみた方がいいんじゃないかっていう気がしてきた。人はあなたにはこれがいいんじゃないですか、って合いそうなものをすすめる。でも、この場合にはヨガの先生の考えが必ずしもわたしの適性とか体力とか筋力などと合っているかどうか、というのは難しいところだと思うのだ。先生はぱっと見と直感からアドバイスしているに過ぎない。でも、もしかしたら、適切なアドバイスだったりして……、という可能性もあるから否定することもできない。むろん、わたしが箸にも棒にもかからなかったら、わたしに先生がアシュタンガヨガをすすめたりすることもなかっただろう。笑い話になっちゃうけれど、要支援とか要介護で歩くのも精一杯という人にはアシュタンガヨガとか絶対にすすめないのは言うまでもないことだ。それから、体力がなさそうな人にも、筋力的に厳しそうな人にもこれはすすめないことだろう。ということは、先生の直感や判断もあながち無根拠ではないのかもしれない。星だったら、星さんだったら、もしかしたらピッタリ、アシュタンガヨガがバッチリ合って、より向上していくのかもしれない。そんな期待がヨガの先生の中にはあったんじゃないか。
 先生に期待されている有望株の星。けれど、立ち止まってわたしはヨガに何を求めているのかって考えてみてもいいんじゃないかって思うんだ。
 さて、わたしはヨガに何を求めているのだろう。そして、今まで何を求めてここまでやってきたのだろう。
 まず振り返ってみる。思い出してみる。わたしは何でヨガを始めたのか。そうだな。カッコ良くなりたかったんだ。それから、より健康になりたかったんだ。下世話な話だけれど、カッコ良くなってモテることができたらな、っていう思いもあった。それで女の子にモテモテになったらいいなっていうエヘヘ心も正直なところ、あった。そこが、そこがわたしのヨガのスタート地点。はじまりはそこだったのだ。
 で、ヨガをやっていったら自分で言うのも何だけれど、体がカッコ良くなってきた。さらには、メンタルも安定してきて、心も整えられてきたんだ。で、そうしたら、何だか目標が変わってきた。モテたいという不純な動機で始めた(健康になりたいっていう気持ちもあったけれど)のに、心が落ち着いて平坦になってきたら、今度は平安を、よりまったき平安が得られたらなぁって思うようになったんだ。美肌になるとか、たくましい体になるとか、その結果モテるようになるとか、そういったことがメインではなくなってきて、心の平安へと重きが置かれるようになってきたんだ。
 で、今から、現在からわたしは何をヨガに求めていくのか。今、真っ先に変わらず思い浮かんだのは、やはり心の平和であり、平安。心が安らぎに包まれていて、清浄で静けさに包まれている。そんな境地を目指せたらと今でも思うのだ。平安。だったら、わたしは何をしたらいいのだろうか。ヨガの先生はわたしが平安を求めていることは知らないけれど、『ヨーガスートラ』の話を熱心にするわたしにそれを体現するにはアシュタンガヨガではないか、といったこともアドバイスしてくれたのだ。ヨーガスートラの境地、それはまったき平安であり、澄み切った心であり、最終的には輪廻から自由になった解脱の境地。と話が大きくなってきたけれど、解脱とか悟りまで行かなくても、毎日を心穏やかに澄み切った心で過ごせるだけで万々歳だという気もする。平和に毎日を過ごす。過ごせる。それだけでいいかもしれない。その平安を得るためにアシュタンガヨガがいいのではないか。体をハードに動かして、それによって心をも静めるということをヨガの先生は言いたかったんじゃないかなぁ。
 心を鎮めるには、二通りのやり方がある。体を動かして、体を通して心にはたらきかけて、結果心を整えるか。瞑想などをして心に直接はたらきかけるか。この2通りではないかと思う。
 ヨガをやると頭の中が空っぽになってスッキリする。終わった後の爽快感にはすごいものがある。何というか、世界が急にすがすがしい空気と共に迫ってくる。美しい世界がやってきた、みたいな。同じ世界なのに、まったく別の輝きを持って現れてくるのだ。
 ヨガ初心者がアシュタンガヨガをやろうなどというのは無謀なのかもしれない。でも、やってみないことには分からない。無謀だ、今のわたしには無理だと思ったら、階段を一歩ずつ上っていってその難しいものへと近付いていく努力をするというのもいいと思うし、わたしの人生はまだまだこれからなのだ。何でもやってみなければ分からない。決めた。アシュタンガヨガをやってみよう。今は便利な時代だから、本とかDVDとかたくさんある。それでも無理だったら、アシュタンガヨガを教えてもらえる教室に通うしかない。でも、今のところはとりあえず、アシュタンガヨガのDVDや本を参考にしながらやってみる。そこから始めることにしてみようか。新しい挑戦。
 というか、何でもそうだけれど、まずはかじってみること。本格的に始める前にそれをまずはかじってみる。そこからだ。そこからしか始まらないし、物事をやるためには最初の一歩がなければ、いつまで経っても絵に描いた餅でしかない。で、自分が求めているものと違うなと思ったり、方向性を変えたいなと思ったら、またその時はその時で別の道を歩いていけばいい。
 でも、アシュタンガヨガ、きつそうだなぁ~。お手柔らかにお願いします、と言いながらぼちぼちやっていけたらなと思う。

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