ゲスですみません

いろいろエッセイヨガ
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 「調子が良くなったみたいで良かったですね」、「快適に過ごせるようになったのなら良かったじゃないですか」。そう言われると、何だか気持ちが滅入ってしまう。わたしのためにその人が調子が良くなったこと、快活になったこと、頭が冴えてきたことなどを「良かったね」と言ってくれているのに、なのだ。
 なぜだろう? なぜわたしはこの言葉に一抹の寂しさやら気の滅入りなどを感じてしまうのだろうか。今日、はっとした瞬間があって、もしかしたらこういうことなんじゃないか、っていうのが見えてきた。それは、この「良かったですね」という言葉が突き放されているように感じるからなのだろう、ということ。もちろん、言っている本人も言われているこちら側もそんなことは何も思わないし、連想することさえない。でも、何だかこの言葉って突き放している。わたしの感性が敏感すぎるだけなのかもしれないけれど、この言葉からわたしは、わたしはわたしであなたはあなた、というメッセージを受け取ってしまうのだ。どういうことかと言うと、この言葉を発する相手は自分と他人との間に境界線をしっかりと引いていて、自分の領域と相手の領域をしっかりと分けている。そうか、だからこの言葉はどこか寂しかったんだ。ようやくこのことに気付くことができた。わたしが相手に求めていること。求めてしまうこと。それは境界線をビシっと引かれてしまうことではなくて、一緒に喜んで欲しいのだ。「良かったですね」ではなくて、もっと深い共感。それも線を引かないような共感をしてほしいのだ。これは共感というよりは同意と言った方が適切だろうか。
 じゃあ、どんな言葉だったら嬉しいのか? 「良かったですね」ではなくて、何て言ってもらいたいのか? そうだな。「わたしもそれをやってみて同じように調子が良くなりました」とか言ってほしい。わたしがたとえば「ヴィーガン食(完全菜食。肉、魚、乳、卵、蜂蜜など動物性の食品は取らない食事)をやったらすごく調子が良くなったんですよ」と相手に嬉しそうに言ったら、「わたしもぜひそれをやってみたいです」とか「わたしもそれに興味があります」「わたしもそれを試しにやってみたいと思います」などどこちらの主義主張に興味を持ってくれたり、参加してほしいのだ。と言いつつも、じゃあ、それに興味がなかったら何て言ったらいいのか、ってことになる。うーん、難しいなぁ。そういう時は「良かったですね」などと濁すしかないのかも。
 こうなると、自分の思い通りに反応してくれるアンドロイドでも作るしかないってことになる。自分が返されて嫌な言葉を絶対に言わない。返してくれるのは肯定的で愛情に満ちあふれた優しい言葉だけ。そんな人間いるかもしれないけれど、滅多にいない。カウンセラーとか、本当に心優しい人くらいしかこうした対応はできないだろう。そう、まさにぬるま湯。何も厳しいことは言われず、ただただ悪く言えば甘やかされ続ける。それがわたしがどうやら求めている世界らしい。みんなが優しい言葉を掛け合っていて、誰をも傷付けず(完全に傷付けないのは無理だから、傷付けたとしてもそれは本当に最小限で)、その世界ではほとんど批判なんてことはされない。ユートピアのような理想郷。
 そんな世界、完全には無理だとしてもその方向性で世界が進んでいってくれたらどれだけ平和になることか。そのための方法。地味だけれど確実に効くとわたしが思う方法。それはまず肉食をやめること。牛、豚、鶏などの肉、さらには魚もやめて、乳、卵も蜂蜜もやめたわたし。つまりは、ヴィーガン食。ここまでストイックにやらなくても、たとえばお肉を食べる量を半分にする、でいい。それをするだけで無駄な争いは減るんじゃないかと思う。お肉は闘争本能をかき立てる。闘おうっていう気持ちにさせる。だから、気性が荒くなって争いが起こる。肉をやめてみてわたしがまず感じたこと。それは心が平静になったということ。頭がスーっとしているんだ。透き通るまではいかないけれど、実にクリアーで無色透明に近付いているようなそんな気がする。わたしは今、植物に近付いているんじゃないか、とさえ思う。植物ほど無私で透き通ってはいないけれど、それでも今のわたしは動物と言うよりは植物の趣となってきた。頭の中をスーっと気持ちのいい一陣の風が流れていて、ギラギラした欲望そのものがなくなってきていて穏やか。
 何か今まで動物性のタンパク質だったり脂質だったりでもできていたわたしの体(脳も含む)が植物由来のものへと作り替えられたようなそんな実感がある。もちろん、というか明らかに予想されることは、動物性の物質を原料にして作られた脳味噌と、植物性のそれとでは、思考もその巡り方も変わってくると思うのだ。肉食で雑食だった時のわたしと今の菜食のわたしとではもはや別人なのだ、と言ってもいい。
 菜食にして変わったこと。他にもまだまだある。それはわたしは瞑想をするのだけれど、その瞑想している時、今までよりもその状態が深まっているように感じられるのだ。そして、瞑想を終えた時には今まで感じたこともないような意識状態となっている。このすがすがしさ、頭の冴え、透き通る感じ。もはやただ者ではないような、そんな深まり方。やっぱり、「ヨガを真剣にやりたい、深めていきたいのであれば菜食をすすめる」とある有名なヨガの先生が言う理由が分かる。動物的な意識状態ではなく植物的なそれになる。そういうことではないかと思うのだ。
 もしかするとだけれど、平安というのは、それも透き通るような悟っている状態とは植物のような状態なのではないか。動物のようではなくて、植物的な状態のことなんじゃないか。
 わたしはいろいろと試して自分の体で人体実験をやっている。ヨガというのはある意味、自分を使った実験ではないかと思う。自分の内側の状態に神経を研ぎ澄ませていき、しっかりと観察していく。そして、その結果をもとにしてさらなる実験を繰り返していく。
 話を冒頭に戻すと、わたしは傷付きやすく壊れやすい人間なのだと思う。だから、自分を否定しない理想的な人間を求めてしまい、その理想像から相手が少しでも逸脱すると幻滅してしまう。わたしが相手に求める高い要求。こうあってほしいと願う理想の姿。でも、そんなものはこの世に存在していなくて、自分仕様のアンドロイドでも作るしかないのかもしれない。要するにイエスマンばかりを自分の下に従えているワンマン社長と何ら変わらないのだ。でも、みんなそうなんじゃないの? 自分の言うことを次から次へと否定してきて、「お前馬鹿だな」とか「あなたの言うことは間違っていて、あなたには何も価値がないね」などとまくし立ててくる人と仲良くしたいかと言えば、そんな人はいないだろう。みんな、自分の意見に同意してくれる人を求めている。「いいね」と言ってくれる。手放しでほめてくれる。そんな人をみんな求めてやまないのだ。だからこそ、人間にとって本当の意味で癒しになることは、気の合う仲間と交流することと運動すること。それが人間にとって昔から、それも太古の昔からあって、DNAにも刻み付けられている本能的な衝動であり欲求なのだ。人と交流したい。そしてさらには自分のことを認めてもらいたい。群れたい、と体を動かしてスッキリしたい。この2つなのだ。
 とここまで少しばかり雑多に書いてきてしまった。うーん、まとまってな~い。でも、まとまりって必要? そもそも必要? もうまとまりなんかなくていいよ。面白ければそれでいい。ってつまらないって? それ言われちゃうとな~。気持ちが滅入っちゃうんだよな~。だから、「面白かったよ」「ためになったよ」と言ってくださいまし。と結局イエスマンを求めているわけだな。
 いつも笑顔で嫌なことを何も言わない、そしていつもほめてくれる、そんな美人で料理上手な女の子のアンドロイドがほし~い。ってぬるま湯すぎてわたし、駄目になるな。きっと。絶対堕落して駄目になるな。うーん、だから自分のためにも保留ということにさせてください。あー、でもこれって男の夢だな~。むふふ。と、ゲスでゲスで申し訳ありません。深く心からお詫び申し上げたいと思います。

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