トリセツ

いろいろエッセイヨガ
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 今日はヨガ教室だった。ヨガをやり、静かな贅沢な時間を過ごす。そして、毎度恒例(?)のようにヨガの先生と話をさせてもらった。
 先週、ヨガの資格のRYT200が云々という話を先生としたのだけれど、それからというもの、わたしはどうも迷っていた。吹っ切れました、みたいなことをこのブログでも書いたような気もするのだけれど、それでも迷っていることに変わりはなかった。何というか、「じゃあ、やってみるか」とか「やってやるか」といったGOサインが自分の中で出ないのだ。だから、わたしはこの思いを正直に先生に言ってみた。「瞑想をして自分自身の心の声を聞いてみたんですけど、自分がRYT200の資格を取りたいのかどうかが分からなくて答えが出ないんです」。すると、先生は「そう思うということはまだその時が来ていないのかもしれませんね」とやさしく返してくれる。
 というか、もしもわたしがそのヨガの先生になるための資格をどうしても取りたい。それも何があってもどんなことがあろうとも取りたいと思うのであれば、そんな迷っているとかどうこうなんていうことにはなっていなくて、真っ先に資格を取るために決断して行動して動いていることだろう。そんなことも先生に言ってみたら「たしかにそうかもしれませんね」と先生はうなずく。
 もしもだけれど、絶対にあり得ないけれど、もしもの話だから聞いてね。わたしが10代の頃からファンで大好きな広末涼子さん(不倫報道で人気は急落してしまったけれど。今、芸能界から干されている模様)と週1で月4回で1ヶ月間、それも1日、朝の9時から夕方の6時まで一緒に自由に過ごせるとなったらわたしはどう動くだろう? もうそうなれば、県内どころか東京とか彼女の故郷の高知なんかへも喜んで行くことだろう。費用が50万円かかろうが、いくらかかろうが借金してでもそのチャンスを掴もうとするのではないかと思う。
 ということはだ。言い方は悪いけれど、わたしにとってヨガとはそこまでモチベーションをかき立てられるものではないということ。ヨガの資格を取るために50万円かかるということに躊躇する。とまどい、ためらう。しかし、自分の好きな広末さんと過ごせるのであれば50万円どころか、それ以上であっても惜しくない。うーん、というか、正直なところ、そういうことなんだろうなぁって思う。もちろん、わたしはヨガが好きだ。好きなんだけれど、どうしてもそれを深めたいとか極めたいとかそういうわけでもなさそうだ。そんな本音というか、詰まる所の本心のようなものがこの広末さんの話を持ち出すことによって見えてきた。
 以上のような、ヨガが本当にやりたいわけではないのではないか、という話はひとまず一旦、置いておくとして、話を続けるとして、ヨガの先生とはこんな話もした。先生はこんなことを言った(注:話の正確な再現はできていないと思う。一字一句この通りではなくて、こんなことをその先生が言ってくれた、という程度に受け止めてほしい)。「星さんは平安を求めていると言いますが、平安と言ってもそれは人それぞれだと思います。たくさんの人に囲まれてにぎやかに楽しく過ごすのが平安な人もいると思いますし、それとは対照的に、人とはあまり関わらずに狭い人間関係だったり、ほとんど一人でいて知識なんかを蓄えることに平安を見出す人もいます。わたしたちは誰かと比べたりして自分が平安かどうかということを判断しようとしますが、平安というものは一人ひとり違っていて異なっているんです。だから、星さんは星さんにとっての平安を求めていってほしいとわたしは思っています。あくまでも自分にとってどうか、ということであって、誰かがそれをいいと言うからとか評価しているからとか、そういうことではないんですよ。」
 わたしは本当にその通りだなと思った。あくまでも自分にとってそれが平安なのか、幸せな状態なのか、ということが大事というこの考え方にはすごくうなずいた。世間で言うところの幸せを実現できているから幸せ? みんなが平安だと思うことをやれていれば平安になれる? そんなことはない。それは世間にとっての、みんなにとっての平安や幸せでしかなくて、必ずしもそれが自分にも当てはまるかどうか、と言えばそんなことは断言できないのだ(ということは、もう一方では、そういう世間とか社会なんかのみんなの基準で平安だったり幸せを感じることができる人も一定数はいるということでもある)。
 わたしの平安。わたしにとっての平安。そして、わたしにとっての幸福。これを的確に把握するためには自分をつぶさに冷静に観察していくしかない。わたしは何をしている時、もっとも活き活きしているのだろう? わたしは何をしている時、もっとも充実しているのだろう? というか、一言で聞いてしまうなら「何をしている時、平安を感じるの?」ということだ。
 やはり、地味なようだけれど、絶えず自分自身と向き合っていくしかない。そして、その自分が「今、平安かもな」という時をしっかり意識する。そして、その平安かもしれない、ということを何度も繰り返してそれをやっている時間を増やしてみる。そうしていけば、きっと平安を感じることができている時間は増えていくし、そうなれば人生そのものが平安な生へと変わっていく。これって自分の取扱説明書を作っていくことに似ているなとも思う。わたしは「これをやれば調子が良くなって、これをやると調子が悪くなります」「これをやれば機嫌が良くなるけれど、これをやると不機嫌になります」みたいなものを自分のトリセツ(西野カナの歌で「トリセツ」ってあったよね)に次々と書き加えていく作業のようなものじゃないかな。
 ということは、わたしのトリセツには、星大地は広末涼子と一緒に過ごせるのであればお金を湯水のように使っても惜しいとは思いません、とか、ヨガのためにお金と時間を使うことには出し惜しみをします、みたいなことがおそらく書かれることになるだろうと思う。良し、追加!! それから話をしている時にスマホなんかを相手が見たりするとテンションが下がって気分が悪くなります、とか、パソコンを長時間やったり、ポルノを見たりすると調子がガクっと悪くなります、なんてことも追加すべし!! 良し、追加!! てな具合で、わたしのトリセツが何ページのものになるのかは分からないけれど(1000頁もの大冊?)、その説明書の中にはきっと「星大地の平安とは○○である」ということも書き加えられているはず。
 だからこそ、だからこそ、知っているようで本当のところを知らない自分自身に目を向ける。大学ノートで「わたしの取り扱い説明書」なんていうタイトルを付けて、自分研究なんていうことをしてみても面白いかもな、って今思った。やってみようかなぁ。きっと使えるものになるだろうな。一生、手放せないだろうなぁ。あ、でもこれは他の人には見せないっていうお約束ね。だってトリセツの中にはとてもではないけれど、ブログはおろか死ぬまで秘めていたいことだって含まれているから(ってどんなヤバイことなんだ?)。まぁ、恥ずかしいのです。いろいろと。
 自分の取り扱いが上手ければ、いつもご機嫌で、いつもハッピーでいられることでしょう。そして、どうすると不調になるかってこともその説明書には書いてあるから、病気にもなりにくくなって、おそらく元気でいられることでしょう。意外とね、自分のことって分かっているようで分かっていないんだよ。だから、自分に目を向けてつぶさに毎日観察していく。そうして出来上がったわたしの取扱説明書、トリセツは一生の宝物となることだろう。そして、何かうまくいかないことがあったり、困ったことがあったらとりあえずそれを見てみれば、大方何とかなる。セルフケアでもあるわけですよ。「また、このパターンだ」と案外同じことを繰り返していることに気づかされるだろうなぁ。
 何をしている時、幸せなのか? あなたも自分のトリセツを作ってみませんか? どんなものよりも役に立つかもしれませんよ。



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