星の読書日記7冊目「一人ひとりが自分の心をととのえること」~E・F・シューマッハー『スモール イズ ビューティフル 人間中心の経済学』

星の読書日記
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E・F・シューマッハー『スモール イズ ビューティフル』 (講談社学術文庫)


 お金について思う。お金があれば何でもできると思われている。いや、何でも、と言ってしまうのは言い過ぎかもしれない。けれど、ほぼすべてのことがお金があれば何とかなってしまう。そして、反対にお金がないと行動が制限されて、自由に自らの欲望なんかを満たすことができない。だってさぁ、食べ物だって完全に自給自足していない限り、お金で買って手に入れなければならない。お水だって安全な水を飲むためには、水道料金を払わなければならないし、住む家だってタダではなくて、何らかの形でお金を出さなければならない。つまり、何から何まで、何をするにしても先立つものはお金で、こうなってくると何よりもお金が大事。そんなお金がまるで神様になってしまっているような、そんな世界にわたしたちは生きている。
 そうなってくると愛だとか何だとか言ったって、空しく聞こえてくることだろう。ある時、Twitter(今はX)でこんな言葉が飛び交っていた。「愛では家賃は払えません」。わたしには幸いにも住む家があり家賃を払わずに済んでいるので、この言葉の重みが正直なところよく分からない。でも、この言葉を少し変えて、「愛では本は買えません」とか「愛では食料を買うことはできません」としてみれば、自分のこととしてシックリ来る。
 たしかにお金がないと生活できなくて生きていくことはできない。それは正しくてもっともなこと。でも、逆にお金持ちになって好き放題ほしいままに遊び暮らせたらそれでいいのか、と言えばそうとも言えないのではないか。そのことはみんな薄々感づいていることだろうと思う。じゃあ、どんな状態が最も幸せな状態なのだろうと考えていくと、この本の中にすでに答えは書かれていた。

 理想は最小限の消費で最大限の幸福を得ること(本書p74)

 ここには最大限の消費で最大限の幸福を得る、とは書かれていない。そうでなくて、最小限の消費なのだ。となれば、これは言うまでもなく、車で言えばすごく燃費のいい車だろう。少しのガソリンですごくたくさん走るわけなんだから、コストパフォーマンス(費用対効果)だって断然いい。1000円のお金で最高に幸せな人と、1000万円も使わなければそうなれない人とでは断然、1000円で得られる人の方がいいだろう。簡単に安く幸せを得られる人と、相当たくさんのものだったり高いものをつぎ込まなければ得られない人のどちらがいいかは明白だ。
 この本の概要をここで説明してもいいのだけれど、それでは面白くないので、興味のある方には各自で読んでいただくとして、わたしなりの感想などを書いていけたらと思う。(ってこれは最初に持ってきた方が良かったかな?)
 著者の言葉で印象に残ったのは、貪欲と嫉妬心、という二つの言葉。どうやらすべての問題の根っこはここにあるらしい。つまり、これさえ何とかすることができれば、この世界の問題はどうにかなる、ということ。なんて、そこまでざっくり言ってしまっていいのかっていう気もしないこともないけれど、この二つがすべての原因なんだ。どんな社会問題もすべてはこれに端を発している。人間の一番醜くてとてもネガティブな感情。これに煽られてその思いに支配されてしまうのか、それともそこから脱するかによってこれからの展開が大きく変わってくる。
 貪欲というものは際限がない。どんなにより高価なものを手に入れても、素晴らしいものを手に入れても、もっともっととどこまでもほしい、ほしいとなってしまって満たされることなく求め続ける。想像してもらえれば分かるけれど、お釈迦さまって貪欲だった? 聖者と呼ばれた人たちって欲望において際限を知らなかった? そんなわけないよね。彼らは少しの物、少量の食べ物で満足した。そして満ち足りた。だから、大量に物を手に入れようなんてことはしなかったし、食事だって慎ましいものだった。
 反対に、今、新聞をにぎわしているお金関係の事件だったり出来事っていうのは全部貪欲から来ているよね。ほしい、ほしいが止められなくて、それでもほしいものだからお金に目がくらんで違法なことをしてしまう。あるいは違法ではなくても、道徳的だったり倫理的に好ましくない手段を用いてお金を手に入れようとしてしまう。もし彼らが自分の持っている財産に満足できて、「まぁ、これだけあるからいいや」って思えていたらこんなことにはきっとなっていなかった。でも、今の現状に飽きたらず不正な手段を使ってでもお金を手に入れようとした。そう、貪欲なんだ。そして、貪欲こそが人々をネガティブな方向へと導いていく。
 次に、嫉妬心。自分が何かを持っているとして、周りを見渡した時にあの人は自分よりもいいものを持っている。恵まれた環境にいる。キー、妬ましい。うらやましいを通り越して怒りすら覚える。これも要するに、自分が持っているだけのものに満足できていないわけだから、貪欲と同じく足るを知ることができていない。そして、この嫉妬心にも終わりがない、ということを付け加えておきたい。なぜなら、自分よりも優れた人や恵まれたものを持っていたり、いい人間関係などを得ている人なんていうのは、どこまで自分が上昇していってもいなくなることはないから。仮に世界で一番のお金持ちになれたとしても、そうなると人類史の中での自分の位置を考えるようになって、歴史上、実質、世界を支配した偉大な王様なんかと比べるんじゃないかなぁって思うんだ(これはわたしの貧しい想像だけれど)。あるいは、たしかに自分は世界一のお金持ちにはなれたけれど、世界一のイケメンではないとか、世界一運動能力が高い人間ではないとか、他分野の優れた人たちと比べて自分が全然敵っていないことを思い知らされるはず。それに生きていれば、歳だって取っていくわけだから若者をうらやましいと思うかもしれない。「あぁ、あの若さがほしい」とかね。それとか、不老不死でありたいとか無理難題をふっかけたくなったりとかってありそうじゃない?
 あぁ、そうか。つまり、貪欲と嫉妬心なわけだな。問題が発生するのは。とこの本を読みながらものすごくわたしは納得した。ということは、欲望はほどほどにしてこれくらいにしておこうとわきまえて、誰か自分よりも能力的に優れていたり恵まれている人がいても「自分は自分で人は人」と割り切れればいいということなんだ。なんて一言で言ってしまえば呆気ないくらいなんだけれど、この呆気ないことができるかどうかというのがすごく大きいのかもしれないなぁとも思う。
 かく言うわたしも、以前はまさに貪欲そのもので嫉妬心剥き出しな人間だった。
 お金ほしい~。ざっくざっくほしい~。大豪邸に住みたい~。お金持ちになって好き放題やりたい~。東大生だって? キー、わたしだって負けるわけにはいかない。うらやましい。うらやましいよぉ、東大生。東大生が妬ましい。うらやましいを通り越して憎い。金持ちが好き放題している。妬ましくて仕方がない~。
 こんな調子で平安どころかただただうらやましがってどこまでも貪欲と嫉妬心に漬かっていた。でも、何かこの本を読むとそういった感情が100%なくなったわけではないのだけれど、ほどほどにやってほどほどで満足できればいいんだなぁと思えるようになった。高みを目指して学歴やお金をひたすら手に入れようとする生き方もそれはそれで張り合いがあるのならいいのではないか、という見方もできないことはない。でも、その生き方はそういったものの奴隷になることを意味するのではないかということに気付いた。
 母が最近わたしにしてくれた話でこんな話があった。それはあるYouTuberの人で田舎で暮らしていた祖父母の住んでいた家を100万円くらいでリフォームして移住したらしいんだ。動画ではその生活の様子を公開しているらしいんだけれど、その動画にこんなコメントがされていたらしいんだ。「あなたはタワーマンションに住み、ブランド品を買い漁っている人よりも幸せな生き方をしていると思います。」と。その人は毎日野菜を育てている。大きな庭なのか、小さな庭なのか、わたしはその動画を見ていないから知らないのだけれど、ある程度の広さではあるのだろう。で、その庭で穫れたばかりの新鮮な野菜を食べている。その生活の様子がすごく活き活きとしていて、母はその動画を見て「すごくいいなぁ。幸せそうだなぁ」と思ったとわたしに言う。そして、そのコメント欄のコメント、何だか鋭いと思ったんだよなぁ。たしかにそのYouTuberのお兄さんはタワーマンションに住んでブランド品を買っている人と比べたらお金は少ししか持っていないだろう。でも、少なくともその人は足るを知れているのではないかと思う。そして、今の生活だったり暮らしで充足していて満たされている。その人が田舎暮らしをしていて、野菜を作って食べることができているから幸せなのではなくて(それもあるとは思うけれど)、その自分が持っているものだったり得ているものに満足できている、そのことが幸せではないのかとわたしは思うのだ。つまり、貪欲と嫉妬心から解放されていて、それに縛り付けられていないということが。野菜を作って食べていること自体が幸せだというわけではない、というのは、たとえ同じようにそれをやっても満たされなければ幸せではないからだ(「こんな野菜食ってられっかよ」と思って満足できない人には幸せは感じられない)。
 以上がこの本を読んでのいわばわたしの読書感想文。で、それらを総括して、というか、まとめとして、著者がよく受ける質問とそれに対してどのように答えたかということを書いて終わりにしたいと思う。著者のシューマッハーという人はすごく高学歴で重要な職務に就いてきた偉い人(わたしはこう言ってしまうことにためらいと抵抗があるのだけれど)なので、いろいろな人から質問される。まぁ、よくある質問というやつですね。

 いたるところで「私には実際何ができるのでしょうか」という質問を受ける。答えは簡単であって簡単ではない。各自が自分の心をととのえること、というのがその答えである。(本書p385)

 世界には問題がたくさんあって、エネルギー問題、環境問題、貧困問題、経済の問題などなど問題と呼ばれるものは山積している。そのうず高く積まれたような問題の壁の前で人々は「わたしに何ができるのでしょうか?」と問う。シューマッハーはいろいろな解決策とか方法なんかを彼なりに示してはいる(著作などを通しても)。けれど、そういったことではなくて、最も根本的なところ、つまり、核心を彼は鮮やかに射抜く。その的確なアドバイスが「各自が自分の心をととのえること」。って何かあまりにもあっさりというか拍子抜けするような答えだ。でも、わたしはこの答えがすごく深いと思う。なぜなら、どんなに日本全体とか世界とか大きなことを言ったとしても、それは一人の人がたくさん集まった集合体でしかないからだ。今、世界人口は80億人とも言われている。80億人というのは80億の人間たちの集まり。その80億もの人たちが自分の心をととのえたらどうなるか? きっとその時、世界は争いのない、貪欲と嫉妬心から解き放たれた場所となる。そう考えるとたしかにその通りで、一人ひとりが意識を変えていくしかないということになる。その変化が多くの人に及ぶ時、世界は良くなっていく。心をととのえて貪欲と嫉妬心を解き放つ。それさえできればもう大抵の問題は解消される、と思う(短絡的で楽観しすぎかもしれないけれど)。「もっともっと」「あの人がねたましい」ではなくて自分自分が持っているものに目を向ける。自分が持っていないものや誰かが持っているものばかり考えるのではなくて、その視線を自分自身へと戻してみる。そして、静かに自分を観察する。すると、自分だって捨てたものではないと思えてくる。仮にどんなに何も持っていなかったとしても、今こうして生きているじゃないか。命はある。生きて、いる。そして、そこから感謝へとつながっていく。シューマッハーの言うようにこれは「簡単であって簡単ではない」。すごく簡単そうに見えるけれど、心をととのえるのって難しい。きっとというか、おそらくそうだからこういうことを言えたのだと思うのだけれど、本の最後の彼の年譜によると、シューマッハーはヨガもやっていたらしい。東洋のことにも関心があって、仏教なんかにも造詣が深かったそうだ。そんな彼だから心をととのえることが簡単でありながらも簡単ではないということは深く実体験からも理解できていたのだろう。「各自が自分のこころをととのえること」。これは名言だと思う。そして、素晴らしいこれ以上ない答えだとも思う。
 この本に興味を持たれた方はぜひご一読を。文庫本で1500円くらいで買えますので。



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