精神障害があってフルタイムでは働けないわたしが思うこと

いろいろエッセイ
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「人間は平等ではないんですか?」
 気が付くとわたしは精神保健福祉士のWさんにそう問いかけていた。突然、何の話かと思ったかもしれないけれど、今日はWさんと電話でお話する日だったのだ。コロナ禍になって地域活動支援センターから足が遠のいていたわたしは、それでも電話という形で月1回彼女と面談の代わりとして30分ばかり話をさせていただくことになっていた。そんなわけで毎月恒例のこととして今日も話をしたのだった。
 人間は平等です。みんな口を揃えて言う、おきまりの言葉。でも、この世の中ぜんぜん平等になんてなっていない。格差はどんどん広がって行くばかりで、金持ちたちは一人で何兆円もの資産を持つ一方、1日1ドル以下で暮らしているおびただしい数の貧しい人たちがいる。そして、その貧しい人たちはその日、その日を暮らしていくのが精一杯で、中にはお金がないばかりにある人はパンすら買うことができず飢えて死んでいく。あるいはそこまで行かなくても、慢性的に低栄養状態に置かれてひもじい思いをしている。1日1食。それも本当にわたしたちから見たら質素を通り越して明らかに足りない食事だったりする。「大人になるまで生きるのが夢です」とそこで暮らす少年少女たちは言う。かと思えば、金持ちたちは毎日、莫大な元手をさらに投資に回すなどしてどんどんお金を増殖させている。それは言うまでもないことで、同じ1%の増加であってももちろん金額が高ければ高いほど増える幅は大きい。100万円よりも1000万円、1000万円よりも1億円といった具合にその増やそうとする額によってお金は凄まじい勢いでどんどん増えていく。「明日のパンを買うだけのお金がない」と悲痛な面持ちでいる貧しい人をよそに金持ちたちのお金はどんどんどんどん膨れ上がっていく。
 これって明らかにおかしいんじゃないの? 言うまでもなくおかしいとわたしは思う。でも、世界は今の形で動いている。富む者はさらに富み、貧しい者はさらに貧しくなっていく。
 こういった不条理に比べたらわたしがWさんに問いかけた不条理なんて不条理ではないのかもしれない。ぜいたくな悩みだとも言えるだろう。わたしがWさんに問いかけたのは、どうしてこうも正社員が優遇されるのかということだった。どうしてフルタイムで働ける人間がいい思いをして、そのフルタイムで働けない人間が肩身の狭い思いをしなければならないのか、ということ。
 わたしは体力がない。というか、精神疾患があるようになってからというもの、長時間何かをやるということができなくなった。とても疲れやすいのだ。だから、フルタイムなんてどう考えても無理。1日8時間なんてどう考えたって働けない。
 となれば、待っている仕事、できそうな仕事と言ったらパートタイマーの仕事しかなくなる。時給いくらという形のいわゆる正社員ではない非正規雇用だ。そうなると正社員ではないのだから、昇給もほぼないし、福利厚生もないし、待遇は悪くなる。短時間しか働いていないのだからそれが当然だ、などと思う人もいることだろう。俺たちは毎日8時間それも週5で必死になって働いているのだからそれくらい優遇されなければやっていられないよ。そんな声が聞こえてきそうだ。
 でも、わたしは思う。これは差別ではないか。短時間しか集中力や体力が続かない人に対する差別だ、と。もしこの差別を是正するのであれば、わたしのような長時間の仕事ができない人間にも仕事内容が同じなのであれば、時給に換算して正社員並の賃金を与えるべきではないか。どうしてほぼ同じ仕事をしているにもかかわらず、正社員には2倍とか3倍の賃金を支払うのか? どうしてパートタイマーというだけで低賃金に甘んじなければならないのか? もちろんわたしの仕事ぶりだったりその成果が正社員の人の2分の1とか3分の1でしかないのであれば、それくらいの給与になるのは仕方がない。しかし、それどころかわたしの方が正社員の人よりも有能で高い生産性を発揮できているのであれば、正社員の人よりもさらに高い賃金を支払うべきではないか、と思う。
 何もこれはわたしだけの話ではなくて、精神障害者の就労についての本で読んだのだけれど、フルタイムで働くことができないばっかりにフルタイム近く働いているのに給料が正社員の半分くらいしかもらえていないという人がいるのだ。この人はその勤務先のために必死に働いている。そして、正社員と同じかそれ以上の生産性で貢献できている。しかし、どうしても正社員としてフルタイムで働くことがあと一歩のところでできない。また、正社員は残業をしなければならなくて、それがとてもではないけれど、できないものだからそういうこともあって正社員になることを諦めてパートタイマーに甘んじている。これって何かおかしいと思う。ほぼ正社員と同じくらいに働いているのに給料半分ってひどい話だと思わない? ただこの人が自分自身に精神障害があって正社員の働き方があともう一歩のところでできないばっかりに、その正社員という枠に当てはまらないばっかりに損をしている。もちろんこの勤務先にとってはおいしい存在だろう。ほぼ正社員の半分の給料で正社員並かそれ以上の仕事をしてくれているのだから。こんなに安くて都合のいい労働力はない。
 そういうこともあってわたしは働こうとか働いてみようというやる気が起きない。って働いたことさえないわたしのような人間に労働を語る資格などないことは分かっている。しかし、頭で論理的に考えて明らかにおかしいのだ。
 と、ここまで詳細ではないのだけれど、こういった話をWさんにしたら、何でも障害者の権利条約において日本は勧告されているらしいのだ。だから、わたしがピーチクパーチク一人でさえずっているのではなくて、明らかにおかしかったのだ。わたしがおかしいのではなくて、この仕組みというか構造の方がおかしかったということ。
 けれど、「同一労働同一賃金を徹底させよ」なんて言ったら、誰が怒るかと言えば、それは正社員という制度で会社に守られている多くの正規雇用の人たちだろう。彼らはおそらくこんなことを言うのではないかと思う。
「わたしたちは会社のために毎日多くの時間を捧げている。それに比べてパートの人たちというのは自分の好きな時間だけ働いているだけじゃないか。そんな気ままで無責任な人たちとわたしたちを同じ待遇で扱うつもりなのか。会社に忠誠を尽くしている人間とそこまでしようとしない人間を同列に扱うのは納得がいかない。パートの人たちがわたしたちと同じように手厚く扱われるのだとしたら、わたしたちが会社に拘束されて不自由になっていることの意味がなくなってしまうではないか。パートの人たちも昇給させるのか? 福利厚生を良くして大切にするのか? それはおかしい。そうなると正社員であることの意味そのものが崩れ去ってしまう。正社員は今までと同じようにパートよりも優遇すべきだ。」
 だからこそ、会社のために尽くして長時間働いている正社員、つまり正規雇用の人たちの機嫌を損ねることは避けたい。いくら今、非正規雇用の人が増えているとは言っても、がぜんメインというかおもなのは正規雇用の正社員なのだと思う。だから、そういった同一労働同一賃金などといった明らかに多数の人たちに反感を買いそうなことを選挙の公約にすることは得策ではない。だから、政治を通してこれを変えようとするのは難しいか、そもそも無理だ。少なくとも多くの正社員なんかで働く正規雇用の人たちはその恩恵をしっかりと受けて守られている。それを捨てて、非正規雇用のいわゆるパートの人たちの職場での待遇や賃金などを良くせよ、なんて彼らからしてみたら何のメリットもない。となると、今までと同じになる。何も変わらない。そもそも人間というのは自分にメリットがあって得をしている場合、それを手放そうとはしないものだ。だから、変わらない。変わっていかないとも言える。
 うっ。というか、厳然たる多数派(マジョリティ)の壁が立ちはだかっているな。あー、そうか。結局、この世の中というか社会は多数派によって生きやすくできているわけだな。右利きの人が多いから駅の改札口の自動改札機が右利き用に設計されているような、そんな感じだろうか。わたしのように体力が続かなくてとてもではないけれどフルタイム(8時間)で働けないという人はいても多数派ではなくて少数派なのだろうと思う。健常者でフルタイムで仕事をしている人であっても、フルタイムではなくて仕事の時間が短くなったらいいなぁと思っている人はたくさんいるだろうけれど、それでもフルタイムは絶対無理というところまで支障を来しているわけではない。大変だけれど、フルタイムでやろうと思えばやれる。そんな人たちが言うまでもなく多数なのだろう。
 だから、もしも健常者の指の数が左右6本ずつというのが当たり前の世界だったら、そういうのが当然のこととして世の中が成り立っているように、みんながみんな統合失調症とかうつ病などの精神障害があるのが当たり前の世界だったらそれ仕様でその社会なり何なりが設計されているだろうということだ。ということは、結局、普通とか健常と呼ばれている人たちが圧倒的多数を占めるのだから、その人たちをも巻き込んで取り込んで仲間にしていかなければ社会は変わっていかない。だって、多数派に属する人たちは多数派にとって生きやすい社会を望むだろうし、多数決を取って物事を決める時には圧倒的にその方向へと決まっていくのが当然と言えば当然のことだからだ。
 ここまで書いてきて言えることはかなり闘い(闘うとしたらの話だけれど)は不利で厳しいということだ。おそらく勝ち目はない。このまま行けばきっと変わることなく今のまま突き進んでいく。そして、同一労働同一賃金を徹底せよ、なんて叫んでもなかったことにされるだけ。じゃあ、どうしたらいいのか? わたしの貧しい知識では答えに窮する。
 でも、ここまで熱く語ってきたものの、わたしがその運動なり闘いをやっていきたいかと言えば、そういうわけでもなく今のところは特に困っていない。ってオイオイ。じゃあ、今までの文章は何だったんだよ。まぁ、怒らないでくだされ。いろいろ考えてみましたよ、ということなのです。そもそもわたしはお金は生活に必要なだけあればいいと思っていて、まぁ今、特に問題なく生活できているのです。ってオイ!!
 最後はやっぱり集中力も締まりもなくなって、ぐだぐだになる模様。ってそんなんでいいのかとも思うけれど、こういった大きな社会問題はわたし一人の力ではどうにもこうにもできたものではない。わたしにはそれだけの力も能力もない。でも、そういう本を読んだりはしていきたいと思っている。とは言いつつも、わたしのやることなすことは焼け石に水にもならないだろう。そんな無力さと向き合いつつ、Wさんとの今日の電話をいろいろ思い返している。
 まぁ、一つ誰にも言っていないけれど、世界の貧困問題を解決する方法があることにはある。でも、こればっかりは言えないなぁ。書けないなぁ。と、もったいぶりつつ、今日という一日が終わっていくのであった。

 追伸
 Wさん、わたしの誕生日の日におめでとうメール、ありがとうございました。40歳の誕生日がさらに思い出深いものとなりました。これから素敵なおじさまになっていきますので楽しみにしていてください(う~ん、どう見てもわたしはおじさまどころか若造にしか見えないなぁ)。



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