生きることって音楽のようなものだよね

ヨガ
この記事は約9分で読めます。

 昨日、「ほしいもの」という記事を書いた。自分自身の内側から出てくる声を聞いたら平安がほしいことが分かり、そのために瞑想や歩くことなどをやっていきたい。そんなことを書いた。が、わたしが移り気なのか、視線が一点に定まらないだけなのか、そういう道もたしかにあることはあるのだけれど、でも、それってどうなんだろうと思えてきてしまったのだ。
 んなこと知らないよ。「から~す、なぜ鳴くの、カラスの勝手でしょ~♪」という替え歌をドリフターズが編み出したように、星がどんなにわめこうが困ろうが星の勝手でしょ~、てなことは重々承知してはいる。でも、何かわたしって移り気なのかなぁ。熱しやすく冷めやすいのかなぁ。だってまだ決意を新たにしてから昨日の今日でしょう。1週間どころか3日も経ってないじゃん。まさに気分は成田離婚(ハネムーンの新婚旅行でケンカして成田空港に着くや否や離婚すること)どころか、付き合い始めて1日で別れ話を持ち出すような、そんな有様なのだ。
 とふさわしい形容ではなかった。別にわたしは瞑想とかそれによって得られる平安に別れ話を持ち出すとかそういうわけではないのだ。ただ、わたしの方向性がまたぐらついて、どうしたもんかなぁと思っている、というだけのこと。
 瞑想をする。そして、心を静かにして平安のある平静で静寂な境地を目指す。でも、それってどうなんだろうと思ってしまったのは、それで本当にいいのかなぁと疑問がわいてきたということなんだ。客観的にその様子を眺めてみれば、星さん座りました。しばらく座っています。とても穏やかな顔つきで目をつぶっています。世界と宇宙と一体になれました。至高の体験をいたした模様です。まだ座っています。星さんは高い境地に達しました。ということで、ただ座っているだけでそれだけって言ってしまえばそれだけなんだ。いや、それだけだとしてもその体験は何物にも代え難いものなんだ、と反論することもできることはできる。でも、それでいいんだろうか。ただ座って自分の平安を求めているだけでいいのだろうか。自分は気持ちよくなって心地良くなれるかもしれないけれど、それだけでいいのだろうか。そんなことを思ったんだ。
 世界に80億人ともいう人間のうちの1人でしかないわたしがただ座っているだけ。何かそう考えると寂しくなってくる。どんなに至高の体験をわたしがしようとも、ただそれだけのことで、大河の一滴のようなわたしがどうしたとか、こうしたとかいうだけの話でしかない。それって影響力を手に入れて行使したいっていうことなのかなぁ? たとえばわたしが何か、今はこうして思想を紡ぎ出しているのだけれど、これをたくさんの人に読んでもらって、このわたしの思想によってたくさんの人に影響を及ぼしたい。そうすれば満足なのかな? ともなれば、それは社会的に認知されること、つまりは多くの人に知られて多くの人に影響を与え続けることのできるような、そんな人になりたいということを意味するのではないか。
 何かわたしが瞑想をしてそれをどれだ深めてもたかが知れているような気がする。って、何か本質からずれていますよね? じゃあ、とわたしは自分自身に問い掛けるしかない。どうなったら満足なんですか? どうなったらもう文句も不満もなくなるんですか、と。
「たかが知れている」というのは要するに、それに果たして意味があるのか、ということなのだろうと思う。たかが知れていることに意味があるのか、と問うならばそこで言うところの意味とは何ぞや、ともなってくる。意味、つまり価値の話へとなっていくのだ。
 極端な話。神様とか仏様とかスピリチュアルなこと、さらには宗教的な話とかを全部抜きにすれば、この世界なんて意味がないですよ。どんなに頑張って生きようが、楽して生きようが、姑息に生きようが、つまりどう生きようが人間はどうせ死ぬ。どうせ死ぬんだから何やったって無意味だし、どんなにこの社会だったり、誰かに奉仕しようが、その社会もその誰かも消えてなくなるだけなんだから意味がない。みんな消滅する。消えて跡形もなくなるだけなんだから意味がない。
 などと過激な世界無意味論を叫んでみたところでこれ自体も結局は価値の問題でしかない。思うんだけどね、人って自分の存在や、その自分自身がやっていることに意味や価値がないと思えてしまうと苦しくなる生き物なのね。だから、何か苦しくなってくると自分が生きていることに意味があるのか、とか自分がやっていることは無意味でないか、とかそういうことに悩み始めるんだ。
 たしかこんな話があった。大きな岩を山の頂上まで運ぶことを強制させられている人が何が苦しいかと言えば、その岩を運ぶことではなくて、その岩がまた元あった場所へ落とされて、この無意味としか思えない作業を延々と繰り返さなければならないことなんだ。頂上まで岩を運ぶ。元の場所へと岩は落とされて戻される。また頂上まで運ぶ、を延々と繰り返す。これって今わたしが文章を書いていることに当てはめて考えるなら、たとえば1日、一生懸命、何千文字も文章を打ち込んだとしましょう。しかし、それを保存することは許されなくて、1日が終わると強制的に完全消去される。で、また次の日も書かなければならない。また書く。そうするとまた消去。それも強制的に。
 たしかにこれらは嫌だと思う。やったことがほとんど意味をなしていない。岩を一生懸命、頂上まで運んでもまた一からやり直し。文章を書いてそれを消されることについてもやったものが残らない。って、よく考えてみるとこれって死と同じじゃないか。時間が過ぎ去っていくことと同じじゃないか。そうだ、それと同じだ!! わたしたちは今何かをやっているわけだけれど、自分の知識とか経験とか記憶をおそらく死後にまで持ち越すことはできない。また、それと同じように、自分がこの世でやったことや作った物なんかも長い視点で見てみれば何も残らない。今、多くの人たちは自分が生きたことを後世に残そうとか、生きた証を残そうとか言って懸命にシャカリキにやっているけれど、それだって残りはしない。1000年後にはもう跡形もなくなっていると思うし、1億年後には人類だってもういないかもしれない。それでも頑張るのは何故なのか? というか、何のために頑張るのか? スピリチュアルとか宗教的なことを抜きにして考えるのであれば、どんなに一生懸命文字を入力しても、つまりはどんなに頑張って生きてもいずれはしばらくすると消去されるだけ、死んで消えるだけ。どうせ消えるのに、どうせ消されるのに何の意味があるのか、と真剣に思わずにはいられない。
 ド直球で答えようとするなら、「今、というこの瞬間、この時に価値があるからではないか」としか言えないし、それしか答えようがない。わたしは今、一生懸命文字を打っている。文章を紡いでいる。つまり、生きている。それは時間が経つと消されてしまう。だから、少しの間しか残らない。わたしが今こうして打っている文章だってわたしの死後すぐに消えていってしまい、数年どころかすぐにその存在を忘れられてしまう運命にあるかもしれない。わたしの存在だって死後もって数十年で忘却の彼方へと消えてしまうことだろう。でも、それでもたしかなことはこの今という瞬間を生きているということ。それはまるで音楽のようなもので、今ここに立ち現れてそしてその瞬間瞬間で消えていく。録音できない音楽。それが命であり生きるということなのだと思う。音楽は現れたかと思うと同時にもう次の瞬間には消えている。本来はそれでいいのかもしれない。記録して取っておいたり、何度も再生できるようにしたりしなくても。というか、この録音だったり録画にしてもそれなりに今という瞬間をその記憶媒体の中に閉じこめているけれど、それはその時のその瞬間を閉じこめることに成功できているわけではもちろんない。その時はその時だけで、その瞬間はその瞬間で終わってしまう。そう考えると言葉を文字にすることもその時考えたことをそのまま残せているわけではない。その思いだったり考えを文字にした瞬間にはもうそれらは死んでいるのだ。そういうことを本能的に嗅ぎ取っていたからなのか、わたしは何でもかんでもスマホで録画しようとしたり、写真に収めようとするばかりの人に違和感を感じていたということに今、気付けた。「大切なのは今でしょう」と言いたくなってくるのだ。
 ここまでいろいろと考えながら書いてきた。ここまでの話を踏まえた上で平安というもの、そして瞑想することについても考えてみたいと思う。平安というものはいつ感じるものなのか、と言えば、今ではないだろうか。今、平安を感じる。今、心が安らかだ。今、落ち着いていて静かな心持ちでいる。そう、今なのだ。だから、瞑想をすることによって何か結果を出そうとか、何かを手に入れようと言うのは何か違うのだろう。それは視点が今ではなくて未来へと移ってしまっている。今、瞑想する。今、瞑想している。そして、その瞑想によって今、心が平安だ。と、わたしは今気付いた。それでいいんじゃないか、と。今、瞑想していて、今、平安。そのように瞑想することによって何か残るものを手に入れられなかったとしても、今ここで今この時に平安が得られているのならそれでいいじゃないかということだ。何かを残そう、何か結果を出そうというのは、何かのイベントの時にそのことそっちのけでスマホで撮影しているようなことに近いのではないかと思える。瞑想したことによって何かが形として残るかと言えば何も残らないだろう。結果的には精神が安定して穏やかになるということはあっても、瞑想はそのためにやるというものではない。ただ、瞑想することによって今を感じて、その今に平安なる境地に至る。そのためにやるものではないか。だから、頭が良くなりたいから瞑想するとか、精神状態を良くしたいからやるなどというのは少し違うと言えば違う。そう、瞑想とは今を生きるためにやるものであり、そのように今を生きることによって平安の境地へと至ろうとするためのものなのだ。
 だから、結果を出そうとしなくていい。有意義かどうかとかコストパフォーマンスを考えなくてもいい。もうこうなってくると損得勘定から完全に脱することはできなくても(多少は残る)、ただやりたいから、ただ瞑想をしたいからするということでいいんじゃないか。そう考えると瞑想にしても生きることにしても、それは音楽のようなものだと思えばいい。今という音が現れて消えて、現れては消えるを延々と、瞑想だったらやめるまで、人生だったらその生涯が終わるまで繰り返す。音楽のようなものだから、後には何も残らない。でも、確かなのはその時、その瞬間には音があり、音楽が奏でられていたということだ。その現れては消えていくものを必死になって残そうと録音したり、録画しようとしたりするのは、何だか違うのではないかとここまで読んでいただいた今ならあなたもそう感じることだろう。
 たかが知れている? わたしが瞑想をしたとしてもたかが知れている? たしかにたかが知れているのかもしれない。でも、すべてのものが音楽のようなものだとしたら、そのたかが知れていない価値あるものも、そうではなく知れているものも、同じように立ち現れてはそれと同時に消えていく運命にある(もしくはしばらくは残っても消えてしまう)。だったら今というこの時を、今という音楽を楽しもうじゃないか。それに抗うように記録しようとか、そういうことをしないでただ純粋に今を味わおうじゃないか。あぁ、そうか、それが今を生きるということなんだ。
 ある意味、瞑想をするというのはすごく贅沢な生き方でもある。わたしは瞑想をすることによって何か結果を出そうとしてしまっていた。もちろん、そうは言っても平安を得たいという目標は瞑想をする人にとってはあるだろうけれど、それもありながらも今を瞑想によって生きることができればそれでいいのだと分かった。瞑想もヨガも何か結果を出すためではなくて(もちろん結果とか効果を狙ってやるという人もいるけれど)、ただ今というこの時に集中して今を生きるためにある。そして、そうすることによって平安へと近付いていく。
 ヨガも瞑想も悟りという結果を目指してやっていくものではある。とは言いつつも悟りたいという執着をも完全に捨てることができた時、悟りの境地になるんだろうな。
 と、長くなりました。読んでくださりありがとうございます。感謝、感謝であります。



日本ブログ村のランキングに参加しています。
記事をいいなと思っていただけましたら、
下のバナーをポチっとクリックしてください。
クリックしていただけますと励みになります。
よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました