ほしいもの

いろいろエッセイヨガ
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 今日、瞑想をした。そうしたら自分がほしいものが見えてきた。ほしいもの。それも本当にほしいもの。瞑想で自分自身の内側へと入っていったら、わたしは平安がほしいのだということが分かった。正直、今まで迷っていたと思う。ヨガの資格のRYT200を取るとか取らないとかいうのもそうだったし、その資格を取るための第一段階としてまずはちゃんとした本格的なヨガを学べる教室へ行った方がいいのではないか、などとも考えたりした。でも、そうしたものは何だか必要のないことのように思えてきた。ヨガのように体を動かして平安へと至ろうとする道ももちろんあることにはあるのだけれど、わたしはその道を取らないでおもに瞑想や歩くことをメインとしていきたいと思った。もちろん、そうは言ってもヨガは続けていきたい。けれど、ヨガはあくまでも補助のようなものとしてやる程度にとどめて、それをおもにはしない。ヨガを習うとしたら月に1万5000円とか、さらにフルにやるとすると2万円ちょいはかかる。でも、そういったものが本当に必要なのだろうかと虚心坦懐にわたし自身に聞いていったら必要だとは思えなかった。むしろ、アーサナ(ヨガのポーズ)というものにとらわれてしまって、かえってヨガをうまくやろうとすることに、上達しようとすることに気を取られてしまうのではないかと思われた。とは言えども、何もそういったことをやってみた上でやっぱり違うと思ったというわけではない。あくまでもわたしの直感がそう判断したにすぎない。だから、不安かと思えば、実にすがすがしい気持ちでいる。やっと方向性が定まったとほっとしている。
 わたしの今の気持ちとしては、お釈迦さまのような方向性を目指していきたいと思っている。とは言えども、その境地には到底、達することはできないかもしれない。でも、自分なりに自分の平安を求めていけたらと思う次第なのだ。お釈迦さまと全く同じ境地になることに意味があるのかと言えば、わたしはそうは思えない。わたしはわたしでお釈迦さまはお釈迦さまなのだから誰か他の人と比べるというのも違うような気がする。自分がただ求めていく。そして、安らかな状態へと至ることができたら、たとえそれが他の人にとって大したことがないレベルでしかなかったとしても、そうしたことは別に関係ない。
 わたしが求めていることは、本を読んで博学になり知的に高まることでもなければ、働くことでもなく、人のために生きることでもなければ、何かの道で成功してお金をたくさん手に入れたり、社会的に高い立場に立つことでもない。そして、誰かから評価されたりほめられたりすることでもない。ただ、平安があればいい。透き通るような、水面に波風一つ立っていないような穏やかで静かな境地。まさに静寂。こんなことを言うと、「いい気なもんだよ。自己中にもほどがある」と思われる人もいるだろうと思う。でも、これはわたしの人生であってそう思うあなたに奉仕するためとか評価されるためにあるわけではない。だから、放っておいてほしい。
 と、新たな決意を書いたのだけれど、人間の心は移ろいやすいものでもあるから、また人のために生きたくなったり、知的に高まることに高い価値を見出すようになったり、成功したいと夢見るようになるということもあるのかもしれない。そうなったらそうなったで大目に見ていただきたい。と言っても、これはわたしの人生とか生き方なのであって、誰かにやっていいかどうかと許可を得る類のものではないことは分かっているのだけれど。
 では、今日はこのあたりで。自分自身の声を聞いていけたらと思うわたしなのであった。



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