目的を持たないという生き方

ヨガ星のアシュタンガヨガ日記
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 今日はマイソールクラスで、終わってからヨガの師匠に質問をした。ヨガにせよ何にせよ目的とか目標を持った方がいいんですか、と。
 それに対して師匠は意外な答えをする。「持たない方がいい」と言うのだ。でも、何となくこういう展開になることは予想はできていなかったものの、そんな感じがしてはいた。実際、わたし自身もそんな考え方に最近近づいていたからだ。
 目標、あるいは目的。人は何かを達成しようとそれらを立てる。そして、それを現実にして叶えるべく計画を立てて、それに邁進する。でも、師匠はその必要はないと言うのだ。もちろん、今回これができるようになったから、次はこれをできるようになりたいなぁと思うのはいいとしても、大きな大きな目標を立てることには否定的だ。
 目的や目標というものはそれを立てたり、作ったりした時点で、視線が未来へと飛んでしまう。また、それだけではなくて、その立てた目標が達成できたらまた次に新しい目標を立てなければならず、こうして目標を立てて実現して、立てては実現してを繰り返すことになる。つまり、わたしの理解では師匠が言いたかったのは、未来の目的や目標などを作ってしまうことによって、今に集中して今を生きることが難しくなってしまうということではないかと思う。それだったら、目標などあえて持たずに、ただ今を、この今という瞬間をしっかりと生きていった方がいい。それこそが結果的には良い人生を送ることとイコールだというのは言うまでもない。
 わたしは今までというか、ほとんどの人生の期間において目標なり目的なりを立てて、そういったものをかなえようとやってきた。そんな生き方をしてきたのだ。でも、その時に本当に今を生きることができていたかと言えば怪しい。何か思考だったり視線が前のめりのどこか遠くの未来へと行ってしまっていて、今に集中できていなかったのかもしれない。まぁ、集中できていないとまではいかなくても、本当の意味で、今、この瞬間、たった今という、今の感覚に耳を研ぎ澄ますことができていなかった。物をしっかりと見ていなかったし、聴いていなかったし、味わって食べていなかったし、どこか意識が他のどこかへと飛んでしまっていた。でも、ヨガ的な生き方をどこまでも実践していくことは、とにかく今をしっかりと見て、今の音を聴くことなんだ。それができるかどうか。ただそれだけなのかもしれない。そのためだけにヨガというものをやって、その練習をしているように思うのだ。
 また師匠は悟りとか解脱に対してもすごく冷めた見方をしていて、「悟ったって誰が保証してくれるんですか?」と言う。たしかに仮にわたしが悟ったと自分で思えたとしても、それを一体誰がその通りだと判定だったり認定してくれるのだろうか。聖典なのだろうか。あるいは誰か、「自分は悟りました」と公言している人なのだろうか。それが聖典でもだれか解脱した聖者でもなく、自分自身の直感だったり気付きだったりしても、それが本当に正しいという確証はあるのか、と言えば本当なのかなぁと思ってしまうのが現実的な話だろう。
 たしかに「わたしは悟りました」と公言している人はいる。その人は自分は徳の高い人物であって、その自分であれば悟ったかどうか判断できると豪語してやまないだろう。それは事実なのだろうか。本当なのだろうか。それは本当かもしれないけれど、本当ではないのかもしれない。
 そう考えていくとスピリチュアルの世界というのは無法地帯だとも言える。それは本当なのか、ただそう語ることによって自分が富を得ようとしているだけなのかということは誰にも分からない(もちろん、それが分かると主張してやまないのがスピリチュアルの世界のカリスマ的人物なのだろうけれど)。
 何かわたしはその師匠からの話を聞きながらこんなことを言われているような気持ちになった。もちろん、こんな言い方はしていないのだけれど、「地に足をつけてしっかりと生きてください」と言われているような感じがしたのだ。師匠はヨガにしてもそれを何か悟りとか解脱といった大きな目的をかなえるための手段だとは見なさずに、ただ単に自分が心地良く生活して生きていくための道具(ツール)として考えた方がいいということを言った。生きていくために食事をしたり、お風呂に入ったりするように、その生きていくための道具の一つとしてヨガがある。だからヨガを特別視しない方がいい、と。ツール。単なる道具。いわばそこまで割り切ってヨガをやる。そう、師匠にとってのヨガとは生活の一部なのであって、シャワーのようなものなのだ。自分が心地良く快適に生きていく上で欠かせないもの。それくらいの位置付け。
 さらに師匠は、ヨガの目的があるとすればそれは続けていくことだとも言ってくれた。続けること。それが目的なのだと。
 たしかにわたしはアシュタンガヨガをやるようになって人生が好転してきた。体は強くたくましくなり、心もだいぶ鍛えられてきて、不調にはなるものの、それでもリカバリーはかなり早くなってきている。
 師匠はスピリチュアルな方向ではなく、現実を見ている。それもしっかりと地に足をつけて現実を見ている。
 それでいいのだろうか? いや、それでいいとわたしは納得できるのだろうか。スピリチュアルな道を断つとしたら夢見がちになどならずにただただ現実を見てやっていくだけになる。そこには現実逃避の余地などなく、しっかりと今を生きることだけが残される。
 師匠の口から一度も神という言葉を聞いたことがない。師匠の信仰はともかくとして、その教えについていくのであれば、フワフワしてなどいられない。人生の目的は神を見ることだ、などと設定しなくても、もしかしたら今を見続けていたら神が感じられて見えるようになっているのかもしれない。師匠はもうすでに神様を感じて見ているのか? それは分からない。それはもちろん本人にしか分からないこと。
 まだまだ始まったばかり。師匠を信じて、そして何よりも自分自身を信じて練習を続けていきたい。そんな思いでいる次第。

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