本当は?

いろいろエッセイ
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「わたしは富も名誉も女もいりません。そんなものは必要ないです」。
 このように何かを否定する時、本当に心の底からそのことを否定している、というのは稀であって、実はそこには自分もできることならそうしてみたい、という憧れだったり羨望があるのではないか。そんなことを今日ふと思った。
 そのふと思った時というのはある人のブログの文章を読んでいた時だった。その文章では現世的な欲望が否定されていて、より高い高尚な次元の話がとにかく続いていた。でも、わたしはそこに自分と同じ匂いを嗅ぎ取ったような気がしたのだ。と同時に、わたしも実はその否定しているものを手に入れたいのではないか、という自分の本心というか、抑圧している欲望に気付かされたのだった。
 わたしのこのブログを読んでもらえば分かると思うけれど、わたしは性的な欲望ならびにお金を手にすることを否定してきた。そういったものは価値がないとか、レベルが低いみたいなことをこれでもかとばかりに記事に書いていた。でも、わたしの胸に正直に手を当ててみて、「本当のところはどうなんだ?」と問うてみると、実はわたしがそれらに憧れ続けていて、喉から手が出るほどほしかったのだ。今はもう性的な欲望については、1年に数回とかもっと控え目にして数年に何回か満たすことができればいいと思っているからあまり執着はないのだけれど、お金の方はほしいなぁって思っている。
「あんなものいらない」とばかりに嫌悪感や侮蔑さえも含ませてそれを否定する時、自分はそれを手に入れたい、やってみたいと思っている。そんな理屈を何か(心理学だったかなぁ?)の本で読んだ。その時には何かよく分からない理屈だとしか思っていなかったけれど、ヨガを熱心にやるようになって、ありのままでいられる時間が長くなってきて、自分を偽らなくなってこれたのか、あぁ、本当はその否定していたものがほしかったのだなと分かった。当時は童貞だったから、性的な欲望はおそろしいほど膨らんでいて爆発しそうだったし、お金については今とさほど変わらないものの、できることならもっといい暮らしがしたい、何不自由しないで好きなものを買いたいという思いは強かった。
 そうした思いをわたしは否定して抑圧していた。なぜなら、そうしないと自分が惨めだからだ。ブドウがほしかったのに手が届かなくてそれを食べられなかったキツネが「あのブドウは酸っぱいからいらない」と言うのと同じで、さらにはそれがいらないものであるどころか、「そんなもの!」とばかりに足蹴にすることによって、ますます自分自身がそれを手に入れられないことを正当化しようとする。そんな心理が働いていたのではないかと思う。
 これは物でも人でもそれが手に入れられない時に、それを貶めてけなすことによって、それを手に入れなかった(本当は手に入れられなかったのだけれど)ことはかえって良かったのだと逆転させるわけだから、まぁ、素直でないと言えば素直ではない。
 もしも自分の本心を何も偽らずに「自分は何をやりたいのだろう?」と問う時、その自分の本心は一体何と答えるのだろうか? わたしの場合は、そのことが道徳的、倫理的に容認されることではないからここには書けない。でも、それをやりたいのは事実で、それはできなくて叶えてはならない夢なのだから、死ぬ時にお墓の中へと一緒に持って行くしかない。そのわたしの問題のある欲望はともかくとして、多くの人が同じように、人には言えないような欲望を何かしら持っているのではないかと思う。
 それをやっても100%誰にも見つからなくて、神様とか仏様にも隠し通せる。そうなった時に、人はそれでも自らの欲望を我慢できるのだろうか。これは醜い問いではあると思う。けれど、自分自身と向き合うというのは、そういうことではないだろうか。自分のポジティブな明るい部分と向き合うのは楽しいけれど、人というのは暗い部分もあって、どす黒い感情だったり欲望が渦巻いている。そうした自分と丸ごと付き合う必要があるのではないか。ありのままの自分と向き合うというのは、そうした素の自分と向き合うことを意味すると思うのだ。何もきれいな部分だけを見ることではない。
 でも、最近何かそのどす黒い欲望がしぼんできたような気がする。それやっても何かなぁ、みたいな。本当にそれをやって満足できるの、と冷めてきたのだ。それをやってもたかが知れていて、しょうもないと言うか何と言うか。それはおそらくヨガをやっていることによって自分自身が浄化されてきたからなのだと思う。現在ヨガ歴2年くらいなのだけれど、ヨガを始める前というのは、もっとそのダークな欲望の力が強かった。下手をしたらそれを実行してしまいそうな、そんな危険な感じさえもあったくらいだった。
 何をやってもどうせたかが知れているでしょ、みたいにある意味、人生に冷めてきたということなのかもしれない。でも、それ以上にヨガから受けた影響が大きかったような、そんな気がしてならないのだ。
 もしかしたら道徳的に素晴らしくてみんなから尊敬されていて一点の濁りもないように見える人に限って、実は無理をしていてストレスがたまっていて、性癖が実はヤバイんです、みたいなこともあるのかもしれない。抑圧して抑えて抑えて抑え込んで、その結果ある時それが爆発したり、人がいない時に常軌を逸したり、なんてことがあるかもしれないとわたしは想像したりする。
 必ずしもすべての人がそうではないと思うけれど、このように否定すれば否定するほどそれが気になっていて仕方がないと言っているようなものだから、実はそれを欲しているというのはよくあることなのかもしれない。よくいるよね。小学生で好きな女の子に意地悪してしまう男の子が。「あの子のことが好きなの?」と聞かれて「あんながさつで下品な女、好きなわけがない」と全否定するけれど、実は密かに好きだったなんてことが。
 わたしがやんちゃな人があまり好きではないのも、実は深層意識では自分が明るくやんちゃに振る舞いたいという思いがあるからなのかもしれない。自由に好きなようにやっている彼らがうらやましいのかもしれない、なんていう風に考えることもできる。
 といろいろ書いてきて、本当のわたしって何なのだろう、とふと思う。そんなものは単なる観念で存在しなくて、ただその瞬間瞬間のわたしがわたしでしかないのだろうか? あるいは本当のわたしというものはちゃんとあるのだけれど、それをまだわたしは知らないとか? でも、Aさんの前でのわたしとBさんの前でのわたしとCさんの前でのわたしというのは違いすぎることはなくても若干異なる。Aさんの前では妙に明るいわたしでいるし、Bさんの前ではちょっと物静かな感じになるし、Cさんの前では何だかよりかかり気味になる。そして、誰とでもなくわたし自身と向き合って一緒に過ごしている時にはそれはそれでまた少し違う。
 わたしが本当に求めているものって何だろうと思う。たしかにわたしがほしいと思って、お金を払ったり、申し込んだりして行動を起こしているのは事実だけれど、ほしいっていうのはすごく不思議な感覚だったりする。ほしいって何だと聞かれたら、ほしいはほしいでしょう、としか言えない。同語反復するしかないのだ。
 わたしが本当にほしいもの。それは何? 何がほしいの? 本当は本当は何がほしいの? 本当にそれをほしいと思ってる? それがどうしてほしいわけなのよ?
 そうした問いの前でただただわたしは沈黙するしかない。そして、ほしいと思うからほしいんだという陳腐なつまらない答えをする。それ以外にどう答えろと? わたしの中に何か霊的な外部からの力が働いているとでも言うのだろうか?
 本当は? 本当はほしいの? ほしくないの? 本当は? わたしはインド哲学の教えるようにただ自分の思考(ほしいということも含めて)を、考えることを本当の自分だと思いこんで混同しているだけなのかもしれない。って真相はいずこに?

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