人から嫌われてしまったようでして

いろいろエッセイ
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 わたしはどうやらある人から嫌われてしまったようだ。がび~ん、なんて呑気なことを言っている場合ではない。自己肯定感の低いわたしにとってこれは一大事なのだ。一大事件なのだ。それを感じる少し前まではそこそこいい気分でいられたのに、急に心に棘が刺さったような、そんな苦しい感じになってきた。
 わたしは今まで言うまでもなく温室育ちだから、あまり人から嫌われるという経験をしてこなかった。だから、はっきり言ってそういう自分に向けられるネガティブな態度への免疫のようなものがない。だから、苦しい。苦しかった。
「苦しかった」と過去形なのは今、少し和らいできていて落ち着いてきたからだ。でも、まだ心に違和感がある。
 わたしはその人と取っ組み合いの喧嘩をしたとか罵り合いをしたとか、そういうわけではない。ただ、何か今日はその人の自分への空気が違っていて、話しかけても嫌そうに、まるで嫌な物でも見るような目で答えただけだったのだ。
 何がいけなかったのだろう? それはその人に訊いてみなければ分からないものの、それでも何かわたしのこれまでの言動で気に入らないところがあったのだろう。でなければ、ああいう態度は取らない。しかしまぁ、嫌われるというかシラケた態度を取られるというのはいい気持ちがしないものでモヤモヤする。
 でもわたしだって過去に誰かを嫌ったことがなかったわけではない。しかも、それまでは関係がうまくいっていたのに、嫌いになったり、ちょっとなぁ~と思ってしまったというやつだ。だからおそらく相手を傷付けてしまっただろうとは思う。けれど、嫌いになったものは嫌いになったわけだから何も自分を偽る必要もない。逆にそんなすべての人と仲良くやるなんてことはどう考えても無理なんだから、あの時に取ったわたしの態度は仕方がなかったと言えば仕方がない。
 好きになったり嫌いになったりと人の気持ちは絶えず川の流れのように流れて変化している。昨日までは大好きだったのに、ふとしたことをきっかけに大嫌いに転じる。そういったこともないとは言えない。それを、大好きでいた場合には死ぬまで大好きでい続けなければならないというのも息が詰まる話ではないかと思う。流れるように、流れるままに、あればいい。逆らわず、無理にコントロールなどしようとはせずに大きな流れに身を委ねればそれでいいんじゃないか。
 わたしは人にちょっとな~と思わせてしまうところがあるらしく、今までにも急に関係が壊れたり、自然消滅したりすることはちょくちょくあった。まぁ、精神障害がある人っていうのは(一概には言えないけれど)人間関係を築くのはもちろん、それを保って維持するのが苦手な人が多いから無理がないと言えば無理もない。
 そう考えると精神保健福祉士のWさんとは唯一長く続いているなぁ(もう17年とかそれくらいは続いている)。これが続いているのはそれがお仕事だからということもあるのかなぁ? って考えると急に寂しい気持ちになってしまうけれど、そうではないことを願いつつも、人との関係を維持するというのは本当に難しいものだなと思う。新しい関係を作るのはまだできる。でも、それを長期間に渡って保つというのは至難の業なんだ。と言いつつも、これは健常者であっても言えることじゃないかなってね。
 関係を維持するのは難しいけれど、それを壊すのは本当に簡単で、問題のある言動をすればそれであっさりと壊れてしまう。どんなに絆のある深い関係であっても、ひどいことをすればその関係は壊れて、人は去っていく。だからこそ、自分にとって大切な人との関係は大事に大事にして温め続けていかなければならない。
 現に対人関係療法では、最も親しい家族や親友などとの関係がうまくいっていれば、それ以外の関係がうまくいかなくても致命的なダメージを受けることなどはなくて精神的な危機にも陥らないそうだ。それはもっともなことで、自分にとっての一番大切な人たちから「あなたは価値があるね」「いいね」というように大切に扱われていればほとんど深刻な問題は生じない。でも、そこに亀裂が入ったりすると途端に急変してピンチになる。だからこそ、こうした最も親しい人との人間関係は最優先で守り、いたわり、育んでいかなければならない。
 わたしが母にその嫌われてしまった人の話をしたら一言、「ワガママな人だと思う」と言った。その人とわたしとの間のこれまでのやり取りやその人の言動などを母なりに解釈した結果がこの言葉のようで、わたしは何かハッとさせられた。それまでは自分に100%とまではいかなくても7割、8割くらいは原因があって非ががあるものだと思いこんでいたから、その母の一言に目が見開かされるような思いがした。
 二人の人がいてその人間関係がうまくいっていないとしたら、どれくらいの比率になるかはケースによって異なるものの、どちらかが100%悪くて問題があるということは稀で滅多にないことだと思う。第三者から見たらどちらか片方が一方的に悪いようにしか見えなくても何かしらその悪く見えない方にも何がしかの問題というのはあるものなのだ。今回のわたしの場合もわたしが一方的に悪いのではなくて、やはりお互いの関係なのだからどちらにもそれなりに問題点はある。ただ、わたしは自己肯定感が低いから人間関係がうまくいかない時にすべて自分で背負い込んで責任を感じてしまう方で、いやはや、それが苦しくなる原因だったりする。
 人の多い所を歩いていると自分がたくさんいる人の群れの中の一人でしかないということに気付く。だから、そのわたしを嫌った人もそうした一人でしかないのだ。世界は広く今や80億人もの人がいるらしい。とすれば、そのうちの一人、「1/80億」の人とうまくいっていないだけでしかなくて、それ以外の人たちとも同じようにうまくいかないかと言えば、そんな馬鹿な話はないだろう。犯罪者や悪い人たちにも仲間がいて、そういう人であってもその仲間たちとは仲良くやれているのだから、たった一人、あるいは多くて数人とか数十人とうまくいかなくても80億からそれだけの人数を引いた多くの人たちにはまだ嫌われていない。だとしたら、そんなに一人に嫌われたことを気に病む必要はないだろう。
 わたしの父方の祖母(わたしが取り寄せた京都のお豆腐屋さんのお豆腐を涙を流して喜んだ白血病で亡くなった祖母は母方の祖母なのでお間違いなく)が生前まるで遺言か何かのようにわたしにこんなことを言っていた。今思うとかなりナイスなことを言ってくれている。それは「女の人はたくさんいるんだから、いい人見つけなさいね」という言葉で、たしかにそうだよなぁって思う。女の人はたくさんいる。何かこの祖母の言葉からは「フラれても気にしちゃダメよ。女の人はその人だけではなくてたくさんいるんだから」と励まされているかのようでいいことを言ってくれていたじゃないですかと感謝したいくらいだ。
 このことはパートナー探しだけではなくて、いろいろな人との関係においても言える。一人の人とうまくいかなくても地球上にその人しかいないわけではないのだから、まぁ、それで終わりではないということなのだ。必ずどこかに気の合う人はいる。同性でも異性でもとにかくいるはず。そんな気付きを与えてくれる発想だ。
 誰かが自分を嫌った。嫌われた。それはそれだけのことでしかなくて、それ以外の人すべてにも嫌われたことは意味しないのだから、圧倒的に嫌われていない人の数の方が多いわけだ。むしろ嫌われているのは全体から見れば少数だとも言える。
 わたしはその人と今度どういう関係を築いていきたいのだろう? 修復したいのか? それともこのままでいいのか? それによって今後のわたしの行動は変わってくる。どうしたいのだろうかということは今後ぼちぼち考えながらやっていけばいいことで焦る必要はない。
 すべての人に好かれることなどできない。すべての人に好かれたと思っても、そのすべての人に好かれていることを良く思わない人は必ずいるのだから(つまり、すべての人ではなくて良く思わない人を除いたすべての人から好かれている人)それは実現不可能なことだ。完璧な神様であってもすべての人には愛されていないのだから、やはりそれは無理なこと。
 というか、まぁ誰かから嫌われても仕方がない。だってわたしだって過去に何人かの人を嫌ってきたのだから。好き嫌いや相性の良し悪しがあるのはごくごく自然なこと。すべての人に好かれる必要なんてそもそもないし、現実的でもない。誰かから愛されれば、おそらく誰かからは憎まれて嫌われる。だからこそ面白いとも言えるのかもしれない。いろんな人がいろんな価値観を持っていろんなつながりを持つ。電車に乗って、人間観察をしているとそんなことが実感できて見えてくる。むしろ、無理に苦手な人や自分を嫌ってくる人と仲良くしなくてもいいのかもしれない。人生は有限で短い。だから、そんなことをしているだけ時間の無駄だと考えることもできる。人間関係においても好きを満たせばいいのだろう。好きでもない人のために自分の命である時間を削ることもない。大事なことのために、大事な人のために自分の時間を使う。それでいいような気がするけどな。自己中? わがままなだけ? でも、嫌いな人とだけ一緒にいて、嫌なことだけをやって、そして、そういった嫌なことや嫌いな人のために自分の時間、お金、労力(エネルギー)をすべて使う。そんな感じで人生が終わってしまうのだとしたらそれは寂し過ぎるし、まさに拷問でしかない。
 だからこそ、自分を大切にしてくれる人、自分が好きだと思える人や一緒にいて楽しい人。そういった人たちとの関係で自分の人生を満たせていけたらと思う(仕事だったら嫌な人や苦手な人ともそれなりに必要最低限は付き合わなければならないとは思うけれど)。記事を書いていたら本質が見えてきた。そうだな、そうだったんだ。踏ん切りがつきそうだ。

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