この現実が幻であっても生きていかねばならない

いろいろエッセイ
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 前回の記事でわたしの浮き世離れした別の意味で重い現実感のなさについて書いたので心配してくださった方もおられるかと思う。が、こればっかりはどうしようもない。本当にわたしがそう思うのだから。
 こういうことを言うと、「もっと現実を生きなよ」とアドバイスしたくなってくるかもしれない。これはいわばわたしが働きもせずに楽な生活をしているからこそ出てきた贅沢病のようなもので、働けばすべて解消するのだ、と。現実を生きよ、か。現実を生きよと言われても、自分が今生きている(と思っている)この現実の実在自体を疑っているわけだから、もう足元からすくわれているわけですよ。だから、もしも現実を生きようとするのであれば、まずはこの世界がちゃんと存在していて、かつ実在しているということをはっきりさせなければならない。あるいは夢や幻ではないということを証明しなければならない。
 が、そんなのどう考えても無理だ。わたしたちが夢を見るという眠っている状態の時にはわたしたちは「これは夢だ」とは思わない。夢から覚めて目が覚めた時に「あぁ、夢を見たなぁ」と思うにすぎない。だから、この現実が夢なのかどうかを知るためには、この夢とか幻ではないかと疑っている世界の外側に出なければならない。要するに突き抜けなければならないんだ。でも、そんなことってできます?、とまたもや夢、幻の中でその中の人たちに質問するという滑稽なことをしようとしている。はぁ、無意味ですねとため息をつきたくなる。まぁ、これを一般常識的に考えれば青臭い考えにとりつかれたお兄さんが変なことを信じていて一人つまずいてため息をついている、っていうくだらない馬鹿馬鹿しいことでしかないのかもしれないけれど、わたしはこの現実感のなさに今直面して少なからず悩んでいるのだ。「顔のニキビなんて気にする必要ないよ」と一言、ニキビで悩んでいる人に言うことは簡単だけれど、そう言ったところで問題が解決するわけでもない。それと同じで、「これは紛れもない現実なんだよ。そういうしょうもないことで悩むのやめなよ」とわたしに言ったとしても本人はそう思っているのだから、なかなかこの悩みを解消するのは難しい。
 とここまで書いてきてこうすればいいんじゃないか、という案が一つばかり思いついた。それはこの現実は所詮は夢あるいは幻(のようなもの)なのだから物事にあまり執着しないで、この夢、幻の中でそれなりにやっていけばいいんじゃないかという案。そうだな。この現実がちゃんと実在していると思うと、息苦しくなってしまうけれど、ま、夢とか幻みたいなものだからと思えば案外気楽に生きていけるのではないか。だから、自己実現を立派に果たして素敵な人生を送ろうとか考えなくてもいいような、そんな風に思えてきた。この人生を素敵に完全無欠に過ごしたいと肩に力を入れると途端に苦しくなる。肩の力を抜く。そして、この実在しない仮の幻のような世界でそれなりに過ごす。って本当力みがないよね。このとらえ方というか生き方は。でもさ、テレビゲームの中でどんなに自己実現してもしょうがないでしょ? テレビゲームの中で億万長者になっても、レベル99で最強のパーティーを引き連れても、超絶美少女と恋仲になっても、ボディービルダーのようなたくましい体になっても。なんてことをみんなが思ったらこの世界は滅ぶね。それは確実に言える。何よりも向上していこうとか、進歩していこうというやる気が起きなくなる。「みんなぁ~、この現実は夢なんだよ。幻なんだよ。だから一生懸命生きても意味ないんだよ」なんて言い広めたら、みんな無気力になってやる気をなくすことだろう。あるいは、こんなことを言うわたしをやっぱり統合失調症だからおかしなことを考えていると一笑に付すかもしれない。「この人おかしいよ。やばくない? 近付かない方がいいよ」と。でも、この世界ならびに自分と他者がしっかりと実在しているということを証明できる人などいるわけがない。どう考えても原理的にもそれは無理だ。ただ言えることはこの世界があるように思えて、そして、毎日生きている(ように思っているだけ)とお腹がすいて何か食べたくなって、体を動かしたくなって、夜になると眠たくなるということ。それは紛れもない事実。けれど、だからと言ってそれが実在している証拠になるのかと言えばそうとは言えない。夜見る夢の中で、五感を働かせている夢を見ることだってちゃんとあるし(ラーメンを食べている夢とか。そのラーメンは実際ちゃんと味がしておいしい)、それだから五感が働いてこの世界(と思っているもの)を知覚できたところでそれが絶対に揺らがない証拠にはならないんだ。さらには証明する上で用いることもできないんだ。
 となるとこの世界は夢とか幻なんだから何をしようが自由じゃないか、という危険な思想が生まれてくるのは当然のこと。それに対してわたしが言えることは、それはそうだよなぁとしか言えない。でも、わたしは何か悪いことをして逮捕されたりして牢屋に入れられることは望まない。なぜなら、たとえこの現実が実在しないとしてもわたしの感覚や知覚や思考などは一応存在しているような気がするから。たしかにそれらも存在していないのかもしれない。わたしも、わたしの知覚も、そして思考も夢とか幻でしかないのかもしれない。でも、何か嫌なことをされたりすれば苦痛というものを感じる。だから、そうした苦痛を避けるために悪いことをしようとは思えないんだ。牢屋に入るのは楽しいことではないから。苦しいことだから。たとえそれもこの夢、幻の中での出来事でしかなかったとしてもだ。
 でも、もしかしたらだけれど、この世界はちゃんと一般的な良識や常識のある人の考えている通り、実在しているのかもしれないという考えもわたしは一応持ってはいる。その可能性も考えてわたしは道徳的であろうとするし、だからこそストイックにヴィーガン(完全菜食主義)であろうとするのかもしれない。
 自己、他者、世界。これらは実在しているのか? 考えても答えは出ない。それでもわたしはこの夢や幻かもしれない、今生きているこの世界を生き抜かなければならない。と思いきや、明日にはこの人生が何者かによって、まさにテレビゲームの電源がコンセントから引き抜かれたかのように強制終了させられて、この人生自体が前にも記事で書いた通り、西暦5000年頃生きているわたしにとってのタイムトラベルゲームだった、なんていう結末もあるかもしれない。ゲームをしていたんだ、と。
 ただ言えること。それは今があるということ。夢か幻かは分からないけれど今がある。言えるのはただそれだけ。それ意外は何も言えない。
 わたしよ、今を生きるんだ!!



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