ミニマリズムでほっと安心できて

いろいろエッセイ
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 足りない、足りない。何が足りないの? 自分の能力が、経験が、容貌が、学歴が、お金が。
 そんな感じで足りない病にかかっていたわたしだったのだけれど、ミニマリズムに出合ってすごくほっとした。ミニマリズムを実践している人、通称ミニマリスト。その人たちが出している本を読んでわたしはほっと胸をなで下ろしたのだった。
 その思想はもっともっとと貪欲に求めていって、物なんかもどんどん増やしていくのではなくて、最小限で生きていこうとする。最小限。すごくいい響きだとわたしは思う。最大限ではなくて最小限。それもいろいろな物事に対して。
 ミニマリズムの思想に出合う前のわたしは、お金が足りない、足りないとひたすら自分が金欠病であるかのように感じていた。ほしいものは山のようにある。けれど、それらを買うだけのお金がない。それもそのはずで、わたしは働いていないし、家が金持ちとかそういうわけでもないからだ。ほしいものはある。それも山のように。全部買うにはどうしたらいいのだろう? 宝くじで3億円当てる? いやいや、作家になって、それも売れっ子の人気作家になって億単位で稼ぐんだ。そんな地に足のつかないことばかり考えていた。今思うとすごくはずかしぃ。でも、ほしいものを全部手に入れるためには莫大なお金が必要だということは言うまでもない。だから、それを手に入れるにはどうしたらいいのかと考えていたのだ。いや、考えてしまっていたという方が正確か。
 そういった状況にある時、道は二つ。お金をとにかく一生懸命稼いでほしいものを曲がりなりにも手に入れるようとするか、あるいはあきらめるなり、ほどほどにするかだ。そこにミニマリズムは最小限のものを手に入れるようにする、という画期的な選択肢を示してくれた。ほしいものがある。でも、それをどこまで手に入れようとするか。それによって生き方は大きく変わってくる。
 人生で大きなお買い物と言えば、教育費にお家に車にワイフ(妻)。大学へ行くには数百万円かかる(学部によってはそれ以上)
。お家は人生最大のお買い物と言ってもいいもので数千万円レベルの出費。ワイフ(妻)はトロフィーワイフのようなモデルとか女子アナとか女優とか良家のお嬢さんとか。そういった人とお付き合いしたり結婚したりするにはそれなりのステータスが必要だということはみんな言わないけれど実際のところはあるかと思う(わたしのような無職の男が国民的女優とはおそらく結婚してもらえないように)。
 が、最小限でいいと考えるとそこから道が開けてくる。大学に進学するためのお金がなくたって、別に必要最小限の収入さえあればいいのだから何も大学に無理して行く必要はない(その最小限がどうしても大学へ行くことの場合には別だけれど)。高学歴になる必要なんてないし、一流企業に入れなくたって別に何も問題はない。だってそういうのは要らないんだから。必要以上に、最小限以上に稼がなくてもいいというのはそういうことだ。お家だって最小限でいいんだから広い家をわざわざ35年もローンを組んだりして手に入れなくたっていい。逆に、広い家というのはミニマリストにとってはただの無駄な広い空間があるだけのことで意味がない。だから、家は普通かそれよりも狭いくらいでいい。車については愛車を持たなくたっていい。わたしの場合は車の運転なんかしたらおそらく高い確率で事故を起こすだろうから、そういう人間は車を運転しない方がいい。バスとタクシーと歩きでいい。まぁ、どうしても田舎に移住するということになって、車がないと困る場合には車の免許を取るかもしれないけれど。最後のワイフ(妻)についてはきれいな人はテレビで見てるだけでいいんじゃないのと思っている。何もそのためにひたすら稼いで自分に惚れさせようとする必要はないし、そのためだけに奮闘する気力なんて起きないなぁ。それにきれいなお姉さんはたくさんいて、彼女たちはしっかりとアダルコンテンツとして自分の裸をみんなに見せてくれているんだ。だから、そこまでして、それも一人の人を手に入れるために何千万とか何億とか稼がなくてもいいんじゃないかなぁって(ってこの最後のアダルトコンテンツは蛇足でしたね。つい、本音がぽろりと出てしまいました)。
 自分にとって何が必要かと冷静に考える時、人は物事の本質を見極めるのだと思う。自分にとって本当に必要ではない物、どうしてもほしいわけではない物のために、自分の人生の何よりも尊い財産である時間を削って切り売りするというのは徒労だと思う。だって、それは必要のない物、どうしてもほしいわけではない物のために流される汗なのだから。
 そんなミニマリズムの思想と出合ってわたしは目が見開かされるような思いだった。何て素晴らしくて何て理にかなった生き方なのだろう、と。多くの人が必要のない欲望をかなえるために心身共に健康を害している中、ミニマリズムは何て適切な処方箋なのだろうと思わずにはいられない。
 あなたはそれがほしいのですか? それも本当にほしいのですか? 手に入れなければ人生において後悔するほど手に入れたい物なのですか? ここまで自分自身に問いかけると大抵の買いたいという衝動が何となくほしい、ということでしかないということに気付かされる。
 あなたはどうしても大学へ行って勉強したいのですか? あなたはどうしても今買おうとしている家がほしいのですか? あなたはその車がどうしてもほしいのですか? あなたはその人をどうしても手に入れたいのですか? 同じようにこう問うてみると、自分の心の声が聞こえてくるはずだ。その心の声を聞いて、それでもそれを手に入れたいと思うのであれば手に入れればいい。というか、それを手に入れないと人生において最大の後悔となってしまって、死ぬときに悔やむくらいだったら手に入れた方がいい。でも、そこまでではなくて、まわりの人の目を考えてその方がいいと思うから、とか何となくそれをほしいと思うからということであれば、人生で最大の犠牲を払ってまでして手に入れる価値はないのではないか。だって、そこまでしてほしいわけではないんでしょ?
 やせ我慢してない?
 いや、してない。
 本当は手に入れたくてうらやましくて仕方ないのにそれができないからその価値を貶めているだけなんじゃないの?
 それもない。
 リッチな暮らしをする。物も大量に有り余るほどある。それがその人にとっての最小限の生活なのであれば、その人もミニマリストだろう。でも、本当にそれが最小限なのか、と問うならば要らない物ばかりに囲まれていることだろうと思う。わたしはそんな人生送りたくない。あまり心がときめかないような物に囲まれて生活したくないし、それだったらそれらをむしろ手放してスッキリとさせた方がいい。と言いつつもまだまだ散らかっている我が家ではあるけれど、お金持ちがうらやましいとは思わなくなった。むしろ、彼らがそれを誇るのだとしたらわたしは気の毒な人たちだと同情するし憐れみさえする。彼らが心身共に満ち足りているのであればそれでいい。何も言うことはない。でも、おそらく心がかき乱されているんじゃないですか? お金や物をたくさん持つことによってかえって心はそれらに奪われてしまっていて、少しの物だけで生きているミニマリストのような平安な境地ではないように思う。
 何かを手に入れること。それは自由を失うことでもある。何かを手に入れた代償に失っているんだ。お金でも物でも人間関係でも何かを得れば得るほど不自由になり身動きができなくなってくる。そりゃあそうでしょう。無一物とか少しの物しか持たない人と富豪を比べたら断然、富豪の方が不自由だよ。そして、その財産だったり物だったりの維持管理に自分のエネルギーを奪われていて絶えずそのことでソワソワしているんじゃないかと思う。何も持たない人や少ししか持っていない人は、今持っているものを失ったとしても失うものがないか、少ないから恐れはあまりないんだ。
 で、とどめとばかりにミニマリストは物よりも経験だと言う。いろんな物とかお金とかそういった目に見えるものを取っ払った時に、それでも最後に残るもの。それがその人の人格であり、経験なんだ。それが豊かであること。まるでその豊かさがその人から泉のようにわき出てくること。そんな生き方をミニマリズムは物を最小限しか持たないことを通して目指しているんじゃないかという風にわたしには思えてならない。だから、本当の豊かさとはお金をたくさん持っていることではない。物をたくさん持っていることでもない。どれだけその人自身が生身の人間として、つまり裸になって何も持たない状態になった時にその人が魅力的であるかどうかということ。その人自身が本当の意味での豊かさを持っているかどうか、ということ。
 ミニマリズムに出合ってほっとしたと冒頭に書いた。そして、ミニマリズムを知ったことによって本当の豊かさについて考える機会も与えられた。何てわたしは恵まれているのだろうと思う。ミニマリストは本の中で語りかける。感謝、感謝することが何よりも大切だ、と。つまり本当に豊かな人というのは感謝できる人なんだ。些細な小さな人から見たらどうでもいいようなことであっても感謝できて喜べる。そんな人こそ本当に豊かな人なんだ。そのことに今気付けた。
 感謝できる人になりたい。



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