祖父が亡くなって

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 今朝7時頃、祖父が亡くなった。93歳。ともかく祖父にお疲れさまとわたしは言いたい。1月2日の誕生日を目前にしての永眠。誕生日を祝ってあげられなかったのが残念だったな。
 90年も生きていればきっといろいろなことがあったかと思う。祖父はこの人生という海を今まで泳ぎ続けてきた。そしてやっとその営みから解放されて安らぎの場所へと旅立っていったのだ。
 この二週間あまりは本当に長く感じられて濃密な日々だった。12月13日に入院して、2日後の15日に命が危ないんじゃないかってことで特別に面会させてもらって、それからも状態が悪いために、わたしが祖父の主治医から説明があると病院に呼ばれたりして、ともかくいろいろなことがあった。
 今朝は、朝4時頃わたしの携帯が鳴った。そして、母と共に朝食も食べずに病院へと向かったのだった。
 着くと電話の通り、酸素飽和度が低下していて(80くらい)、わたしたちの呼びかけにも反応しない。反応しないけれど、呼吸は酸素マスクを通してしっかりとしている。
 その呼吸がだんだん弱くなってきた。が、それでも依然としてしっかりと呼吸している。病院に着いてから1時間か1時間半くらい祖父のそばにいたわたしたち親子だったけれど、お腹が空いてきた。祖父はまだ大丈夫だろう。というわけで下の自動販売機(パンやおにぎりなどもある)へ行き、買って食べていたのだった。その時は1階にいた。1階で朝ご飯を食べていたのだ。で、もう少し何かを買おうと7時になって売店が開いたものだから売店にも行ったんだ。と、「電話です。電話です」とわたしの携帯が鳴る。わたしの携帯電話の呼び出し音は機械音ではなくて、「電話です。電話です」という人の声にしてあるのだ。ビクっとする。電話はもちろん病院からで、祖父がいる6階の病棟からかかってきたのだ。「呼吸が弱くなっています。今すぐ来てください」。急いで6階へと戻る。と、到着すると祖父の呼吸は止まっているらしく死人特有の土色に変わってきていた。どうやらわたしたちが上がってくる間に息を引き取ったらしい。最後の瞬間を見届けることができなかったわたしたち親子なんだけれど、後悔はなかった。祖父と最期の時を過ごせたんだから。もう後悔はない。やりきった。そんな思いで一杯だった。
 亡くなった祖父を前にしてお祈りをした。涙がこみ上げてくる。が、こらえる。
 母はわたしにこんなことを聞く。「おじいちゃんはどこへ行ったんだろうねぇ?」と。わたしは「天国へ行っているだろうけれど、こればっかりは自分が実際に死んでみないと分からないことだからね」とクリスチャンのくせに確信を持った言葉を発することができない。でもいいのだ。それがわたしの正直な気持ちなのだから。信じてはいるけれど、確信とか盲信はしていないわたしなのだ。
 が、いかんせん気持ちが悪い。と言うのも、昨日寝たのが夜の12時頃だったのだ。珍しく夜更かしをしてしまっていた。だから、朝の4時に叩き起こされたのはなかなかきつい。でも、わたしは向上してきていた。だから軽い不調に悩まされながらも、もういてもたってもいられないくらいの気持ち悪さまではいかなかった。何とかこらえた。Kindleで新約聖書を読んでいたら気持ち悪さなどの不快感が落ち着いてきたわたしである。疲労がピークに達したがゆえの気持ち悪さ、不快感。が、こらえることができた。やるじゃん、大地さん。星どん、グッジョブ。
 で、わたしが葬儀屋さんに電話をして手配をした。途中、吃音(きつおん)持ちなのでつっかえたり、つまったりしながらも何とか手配した。やるじゃん。星どん、グッジョブですね。
 葬儀屋さんがお迎えに来た。医師も含めたスタッフ一同に見送られて病院を後にする。タクシーで病院まで来ていたわたしたちは葬儀屋さんの祖父を乗せた車に乗せてもらった。車が走り出す。と、光が。9時頃だったけれど、目がくらむほどのお日様の光が飛び込んでくる。ま、まぶしい。けれど、そのまぶしい光がまるでわたしたちの行く手を祝福してくれているような、そんな感じがしたのだった。まばゆいばかりの光。病院に暗い時からいたわたしたちにとって外の光というのはまばゆいものだったのだ。
 葬儀会社に到着して、打ち合わせが始まった。祖母の時と同じ葬儀屋さんだからもう要領は得ている。だから、話がスムーズにトントン進んでいく。祖母の時と同じような感じにすればいいのだから何も難しい話はない。流れるようにどんどん手はずが整えられていく。
 打ち合わせが終わって自宅に着いた。お昼を食べてあまりにも疲れてしまったので二人ともしばしの休息に入る。疲労困憊。
 そして1時間くらい眠っただろうか。わたしは祖父の施設へと電話をするつもりでいたのだけれど(祖父が亡くなったことを知らせるため)、お世話になったのだから感謝の気持ちを伝えるためにも施設まで行こうと決意する。
 施設へと向かう。祖父が一年半あまりを過ごした施設。と、駐車場で何かとお世話になった相談員の方が施設の車を磨いているではないか。となれば話は早い。彼に祖父が亡くなったことなどを早速伝えたわたし。彼は実際にこうして足を運んで来てくれたことが嬉しかったらしく、祖父が亡くなったことはショックであり悲しいことではあるけれど、それでもとても嬉しそうだった。実際に会って感謝の言葉を伝えるのって何ものにも代えられないものがあるよね。そういうわけで祖父が亡くなったことを他のスタッフにも伝えてもらうようお願いしてわたしは祖父がいた施設をも後にしたのだった。
 次に向かった先はその施設から遠くない森の公園(とわたしが勝手に命名しただけでちゃんとした公園名はある)。疲れている時や気持ちがくさくさしている時にはこの公園に行くと森林パワーで癒されて元気になれるのだ。
 公園に着いたわたしは散歩をした。すると何だか葉っぱのフレディを読んだことはないからこれを持ち出していいのか疑問だけれど、人間も葉っぱみたいなもんじゃないかって思えてきた。祖父も一枚の葉っぱで時が流れて散ったんだ。そんな風に思えてならなかった。
 公園にはオレンジ色のまりのようなマイボールを転がして遊んでいる女の子がいた。お母さんと一緒に来ていて、それはそれは楽しそうに遊んでいる。この女の子も7、80年もすれば立派なおばあさんになる。そして、この元女の子も死んでいき骨になるのだ。
 別の方向を見渡せば、サッカーをして遊んでいる若いカップルがいる。それはそれは無邪気に遊んでいて、上手とは言えないサッカーを満喫して今という時を本当に楽しんでいる。彼らも5、60年したらおじいさん、おばあさんになるのだ。そして、この元若カップルも二人ともゆくゆくは骨になる。
 そして、何を隠そう、このわたし。このわたしも40年くらいしたら老人となり、あとそれから20年くらい生きられたら最高なんだけれど、どちらにしろいつかは死んで焼かれて骨となるのだ。
 何だかこうした営みがとても愛おしく感じられてきて、生きているって素晴らしいことなんだな。何て素晴らしいのだろうと木々に囲まれながら崇高な思いにかられたのだった。時間が経っていくこと。老いていくこと。そして、いつかは死ぬこと。それがまるで自分が自然の一部であって一体化するかのようで、とても愛おしいのだ。葉っぱのようなわたしたち。時が来れば散りゆく一枚の葉っぱ。その当たり前のシンプルな事実がとても心地いい。
 わたしたちはアンチエイジングなどと言って必死で老いないようにして、死に逆らおうとする。もちろんそうしたことは人生を快適に生きていくために必要なことではあると思うのだけれど、それらが何だか子どもっぽい悪あがきのように思えてきた。と言いながらもいつまでも若くいたいとわたしはアンチエイジングの技法をすることだろう。この矛盾、このせめぎ合い。それが人間なのかもなって思う。いつまでも生きていたい。いつまでも若くいたい。でも、いつかは死ぬのだ。葉っぱが散ろうとするのであれば、どんなに人間が医学やら何やら持ち出しても無理なのだ。そんな自然の大きな流れを森の公園へ行って全身に感じていた。わたしは医学を否定するわけではない。でも、あの機械音や管がひしめく病院からこの木々がある公園へ来てみると、本質というのは自然であってそれに逆らうことではないと気付かされる。自然に、ナチュラルに、あるがままに、けれどやることはしっかりとやって(と矛盾しているけれど)、そして老いていき死を迎えるんだ。
 おじいちゃん、天国でおばあちゃんと仲良く過ごしてください。今頃、仲良く天国で歌番組でも見てるかな。この2人、前にも書いたけれど歌番組が好きなんだよな。そして、「この人服装が良くない」「この人老けたねぇ」「上手、上手」などと天国の歌番組の歌手たちにいろいろ茶々を入れているに違いない。おそらく下世話なコメント連発の二人。か、天国で二人とも天使のように清くなっているのかな。賛美歌なんか歌ってたりなんかして。それは分からないけれど、きっと達者でやってくれていることだろうと思う。だから、案ずることはないのだ。死んでも、それで終わりではない。わたしはそう信じているし、そうだろうと思っているから、死は敗北であり悲惨だなどとは思えない。新しい出発。門出。祖父母は今頃仲良くやっている。楽しい天国ライフを送ってください。わたしも数十年後(80年後希望)にそちらへ行くからその時はよろしくね。

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