自分の考えを持つということ

いろいろエッセイ
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 わたしは時々、こんな感慨に浸る。何も特別なことではない。ただ自分が自由であること、自由に生きることができること。そのことについて時折ぼーっと考えるのだ。そして、その余韻に浸るというか、ともかく、あぁ、わたしは自由なんだなって思う。
 わたしは今、精神病院にいてこの文章を書いているわけではない。自分のお家にいて、その1階のお部屋で書いている。あぁ、自由だ。わたしはこの文章を書いても書かなくてもいい。どちらでもいい。わたしにはその自由がある。そして、その自由をめいいっぱい行使している。
 しかし、わたしは完全な自由を手に入れたわけではなくて、一定の制限のもとにいる。お店にあるものをお金を払わないで手に入れたいからと手当たり次第強奪するなんて論外でやってはいけないことだし、全裸の方が解放感があるからといってそんな姿で表を出歩くこともやってはいけない。などとくだらない例を持ち出すまでもなく、わたしには一定の行動の制限がかけられている。まぁ、幸いどうしても日本の法律を破らなければ暮らしていけないとか、そういったことはないからいいんだけれど、それでも自由は制限されている。
 と書いてきたものの、わたしが言いたい自由はそうした自由とは少しばかり違って、まるで自分が自由の大海の中に放り出されたように感じる時の自由なのだ。
 自由っていいんだけれど、「さぁ、今から何をしてもいいですよ」と言われると戸惑ってしまうのも事実だと思う。自由を持て余すというか、自由を使いきれないというか、ともかくそんなまるで自由の海で溺れてしまってもがくような、そんな話なのだ。
 さっき、と言っても午前中に積ん読してあった三浦綾子さんのエッセイの本をパラパラと、しかし、ところどころ拾い読みしていたらこんなことを思った。最後は自分で決めるんだな、と。まるでそれは無神論者かのような、神様を信じない人の台詞のようだけれど、わたしが思うに最後は自分で決める。これは人間には自由意志がしっかりとあって、いろいろな意見を参考にして耳を傾けながらも最後は自分で決めるということなのだ。
 三浦さんはエッセイでこんなことを主張していた。それは婚前交渉への徹底的な批判である。何でもその当時(昭和40年とか50年頃)三浦さんのもとにはお悩み相談の手紙が多数寄せられたというのだ。それは婚前交渉をしてしまった。それでわたしはどうしたらいいのですか?、という悩み相談だったそうだ。三浦さんはどう答えたらいいものかと思ったそうだ。で、婚前交渉をしたという女性に対しては尻をひっぱたいてやりたいとのことで、相当、いやかなり婚前交渉については激しい批判を浴びせている。婚前交渉。なかなか難しいテーマだというのは言うまでもない。昭和40年とかその頃にも、いや人類にとって婚前交渉は大きなテーマだったのだろう。いつの時代にも生殖が行われていて、それだからこそ人類はここまで存続してきたわけだけれど、この婚前交渉をどう考えて、戒めるのであればどの程度まで厳格に対処すべきなのか。人類は今もこの問題と共にあり、決して古いとかさびれている問題だとか言えるものではない。
 この問題については多種多様な考え方があると思う。クリスチャンの人であっても厳格に一律に禁止すべきだと言う人もあれば、いやいや良くないことだとは思うけれど、まぁ寛容に二人の問題なのだからそれに対して第三者がしゃしゃり出るのはどうかと思うよ、と自由なあり方に理解を示す人もいることだろう。で、この場においてわたしが自分の考えを表明してもいいのだけれど、少なくともわたしにはそのことについて意見を言えるだけの資格がないと思っている。最近あまり見なくなったとは言え、ポルノを完全にやめられたわけではないし(これだけポルノを見ない生活をこのブログで推奨しているのに)、三浦さんのように厳格に婚前交渉をしないでいられるだけの自信がそもそもないのだ。そんなゆるい中途半端で自分をコントロールできないわたしがこの問題について意見を言ったり何だかんだする資格はないと思うのだ。言えたとしても、「やっぱり我慢できないだろうから仕方ないよ」といういわば諦めにも近いようなそんなつぶやきくらいなもの。わたしには聖性のかけらなんてなくて、ただただそこにあるのは本能に負かされている弱い自分自身がいるだけ。
 で、思った(ここまでの話が長くなってしまったけれど)。最後は自分で決めるんだな、と。三浦さんがこう言った。誰々がこう言った。みんながこう言っている。常識的にはこうでしょう。なんてことはあると思う。でも、最後はそれらの意見を自分で決断して決めなければならないんだ。そうでないと誰かが自分の意見をいうたびに「それはごもっともです」「その通りです」「その考えも正しいと思う」などとブレまくって、揺さぶられ続けてなぁなぁになってしまう。誰かが意見をいうたびにすべてに同意して素直に受け入れていたら、それはまるで風が吹くたびにその方向に揺れているススキみたいなものでしかなくなってしまう。みんな違ってみんないいとは思うのだけれど、「ところで、じゃあ、あなたはどう思うの? どう考えるの?」と聞かれて答えに詰まるようではどうにも頼りないし心許ない。
 これはキリスト教神学を勉強していても思うことで、マクグラスの『キリスト教神学入門』なんかを読んでいると、いくつもいくつも人の数だけいろいろな神様についての考え方が登場してくる。それを全部受け入れていたら、ってそれは無理な話。どれかを受け入れるのだとしたら、それ以外のものは不採用にしなければならない。これは至極当たり前のことなんだけれど、わたしが思うには「みんないろいろなことを考えていろいろなことを主張しているけれど、じゃあ、あなたはどう思うの?」というのが大事だと思うのだ。アウグスティヌスがこう言っている。ルターはこう言っている。ちなみにカルヴァンはこんなことを言っていた。キリスト教の歴史ではこうこうこういうことがあって、こういう考え方が出てきた。そんなことはどうだっていいわけではないけれど、どうだっていい!! それよりも、それらを踏まえてじゃあ、今を生きているあなたはどう思うのか。そのことが大事なんだ。
 わたしはこのことに気付くまで過去の偉大な人々の言葉をまるで神様の言葉か何かのように扱っていた。そして、とにかくありがたがっていた。でも、それは違うんだ。もちろん、聖書のイエスさまが語ったとされている言葉や、神様がこう語られたというのは無視していいものではなくて、尊重して御言葉なのだから大切に大事にしなければならない。それは認めるのだけれど、もっと踏み込んで、神様はこう言われているけれどわたしはそれは違うと思う、とか、イエスさまはこんな風におっしゃられているけれど、これはちょっとどうかと思うとか、もっとわたし自身の考えというものを持ってもいいと思うのだ。何もこれは聖書を批判的に読むようにとか、批判的に読まなければならないとかそういう話ではなくて、もっと自分自身がどう思うか、どう感じるか、どう判断するかというのを大事にしてもいいんじゃないかということなのだ。聖書にこう書いてあるんだけれど、その通りだとは思えない。でも、これは神様のみ言葉なのだから自分自身を打ち叩いてでも従わせなければならない。それはちょっと違うと思う。それでは神様の操り人形とかロボットでしかないじゃないか。そうではなくて、わたしたちは人間なんだ。自分で考えて、判断し、行動する。神様の奴隷だとしても違うんじゃないかと思う自由はわたしたちにだってある。
 何かをたくさん知っていること。いろいろな経験をしてきていること。それは手持ちの札が多いということであって、的確な意見を導き出す上で大きな判断材料になる。しかし、誰々がこう言っているけれどわたしには意見がないというのは最も憂慮すべき事態だ。あくまでも知識というのは自分の考えを持つためにある。でなかったら何のための知識なのだろうと思う。生かしてこそ、なのだ。
 誰々はこう言っている。また別の誰々はこう言っている。ちなみに誰々はこう言う。では、あなたはどう思う? それこそが、それこそが何よりも大事なこと。他の人の意見もしっかりと聞きながら(本だったら読みながら)、自分の意見をしっかりと構築していきたい。単に物知りなだけの人としては終わりたくないな。自分の考えを育てていきたい。

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