朝ヨガの帰りに途中下車して海へ行くようになりまして

いろいろエッセイヨガ
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 その駅は都会の駅のすぐ近くにあるというのに、ほとんどその駅では誰も降りようとはしない。きっと多くの人がその駅で降りると、そこは海の街で駅から7、8分も歩けばそこが海だということを知らない。
 最近わたしはとあるフリーペーパーで、その駅からすぐのところに海があるということを知った。そして、それからというもの、ヨガの帰りには結構その駅で途中下車して海を見てくる。そんな感じの日々が続いている。
 海はいい。何よりもいい。とにかく癒される。その海は海水浴場で夏にはきっと多くの人が訪れるのだろう。しかし、今はまだ春。もちろん水着姿の人なんていなくて、人がいるとしてもちらほら。特に平日なんかはほとんど貸し切り状態に近くて、海の波をひたすら眺めるのにはもってこいだ。
 ヨガの道場でヨガをやって心身共に浄化されて、そしてさらに海を見て自然の中で過ごす。いやはや、何て贅沢なことをわたしはしているのだろう。それも交通費はヨガの道場の最寄りの駅までの間にある駅を途中下車するわけで、わたしは通勤定期を利用しているから実質的にタダのようなもの。特に交通費がまた別にかかるわけでもなく、しかし、ちゃんと寄せては返す海の波を見られる。すごくすごくいい条件。
 その海水浴場で海の波を見ていると、まず頭がスーっとしてくる。ヨガをやってもスーっとしてくるのだけれど、それ以上に澄み渡ってくるのを感じる。ヨガでスーっ。海の波でスーっ。目で見ているものだけではなくて、耳に聞こえてくる波の音もいいのだろう。心が静まってきて落ち着いてきて、静かに静かになってくる。
 わたしはよく、というか書かずにはいられなくなってバッグからメモ帳とボールペンを取り出してしきりに書き始める。海を見て、波の音を聞いていると大抵何か一つは気付くことがあって、それを逃すまいと書くのだ。以下は今日、海を見ながらメモ帳に書いた文章でわたしがどんな精神状態にいるのか知ってもらいたいので引用しておく。

 9:05
 波は執着していない。実にさっぱりしている。波として現れたかと思うともうすぐに消えている。
 わたしはいろんなものにしがみついているのかもしれない。あれもこれもとかかえて手放そうとはしない。
 本当に必要なものは少ない。あとは余分で余計なもの。こだわっているものとか縛り付けられているものを手放せたら自由になるのかな?
 波を見ながら思う。
 自由になりたい。本当の自由を手に入れたい、と。でも自由は手に入れたり、つかみとるものではなくて、自分自身へと帰っていくことなのだろう。
 そうか。わたしはもう既に自由なんだ。自由だったんだ。そのことが見えなくなっていただけで。だからつまり自分が自由であることに気付くということなんだ。あくせく自由をつかみとろうとしなくても自由だったんだ。
 わたしは自由でもう既に全てを手に入れている。わたしと宇宙は同じものなのだから。一つなのだから。

 こうしたとりとめのない文章を書き、ひたすら30分かそれよりもう少し長い間、海を眺めるとわたしは満足する。そして、家路へと向かうのだ。
 ヨガに癒され、海に癒されとダブルで癒されているわたし。だから、もう海を見終わって帰るためにまた電車に乗った時というのは、心が瞑想でもしたかのような状態になっていてまさに平静そのものになっている。何かありふれた景色に後光が輝いているような、そんな風にさえ見えてくる。一人ひとりの人が愛らしく思えるし、世界そのものがわたしに微笑みかけてくれているような、そんなポジティブな気持ちさえ浮かんでくる。わたし自身がそんな風になっているせいか、電車で必死にスマホをやっている人たちを見るともったいないなぁって思ってしまう。彼らは海が近くにあるあの駅の存在を知らない。知らないし知ろうともしない。そして、都会から出る列車でただそこを通り過ぎる。通過するだけ。スルーするだけ。海を見るために降りる人なんていてもわたしくらいなもので、それ以外の人はそんなことお構いなしに自分の目的地へと向かって行ってしまう。
 人生というものも案外そういうものなのかもしれない。本当はちょっと新しい世界に飛び込んでみれば、ものすごくワクワクする最高に面白い世界があるのに、それがあることを知らなかったり、知っても飛び込んでいけなかったりして、結局いつもの、つまり、たとえるなら自分のスマホの世界だけになってしまう。
 と言いつつも、わたしだって偉そうに人のことは言えたものではない。アシュタンガヨガを道場へ習いに行くかどうかあれだけ、行くだ行かないだのと悩んだからだ。でも、そこでポンっと思い切って飛び込んでみた。ダメで元々で無理だったらやめればいいんだからとまで思って、とりあえずやってみた。そうしたらその先にはものすごくマニアックでやりがいがあってディープなワクワクするような異次元とでも言っていいような世界が広がっていた。面白そうと思ったことはダメ元でいいからやってみる。そうすると世界が開ける。それを実際に実感したのだった。
 ところで、というか少し違う話をすると、わたしが最近不調になる時というのは大抵パターンが決まっている。そう、パソコンとポルノ。そして、さらに分かったことは、それはつまり人工的なものに入り浸って自然が足りなくなった時になるらしいということだ。パソコンもポルノもやはりどちらも人工的なもので長い人類の歴史においては最近できたばかりのものでしかない。パソコンがだいたい20年前くらい、ポルノが30年とかいって40年前とかそれくらいだ。だから、人間にとってはどちらもきっとノイズなのだ。澄み切った心を濁らせるものでしかないのだ。わたしが海を見ていてその姿に心洗われるのも、波の音を聞くと気持ちが落ち着いてくるのも長い長い人類の歴史、いや、このヒトに至るまでの進化の歴史において母なる海がわたしたちのルーツだからなのだと思う。生命の始まりの場所である海。そして、母親のお腹の中の羊水といういわば海に近いところ。そこから人は生まれてくる。考えるまでもなく海と人は切っても切り離せない関係にある。デジタルツールを使うとイライラしてストレスがたまって疲れてくるのも、反対に自然の中で過ごすと浄化されて頭の中がきれいになってくるのを感じるのもきっと何かがあるから。何もなかったらそんな風にはならない。その何かとは、人工的なものに対しての拒絶反応ではないかと思うし、自然の中で過ごして、自然に沿った生活を送ること。それがもっとも自然なことであり本来の姿なのだ。
 何かに依存することは良くない。それは分かっている。でも、依存してもいいものが二つだけある。それは神様と自然。人に依存して誰かにもたれかかれば、そのもたれかかられた人が支えきれなくなって疲れ切ってしまって折れてしまう。「あなたがいないとわたしは生きていけない」「あなたがいないならもうわたしは死にたい」などと依存の程度が激しくなればなるほど問題が生じてくる。あるいは、人ではなくて物とか何かをやることに依存した場合もそれはそれでまた問題が生じてくるのは言うまでもない。しかし、神様と自然はどれだけこちらがもたれかかろうともつぶれることはない。神様が「もうあなたの面倒を見きれないよ」と匙を投げたり、自然が「もう少しわたしなしで生きられるようにしてくれる? ウザいんだけど」なんて言うはずがないし、そんな神様と自然は考えることができない。健康的に何かに依存するなら神様と自然がおすすめです、とわたしは言いたい(運動や健康的な食事などのライフスタイルに依存してもいいかもしれないけれど、運動に依存してしまうと過度にやりすぎてかえって健康を害してしまうし、健康的な食事やライフスタイルなどにはだはだしく依存すると強迫的な感じになってしまう。これだったら神様と自然も依存しすぎると問題あり、かも)。
 海を見に行くようになって自分でも目がきれいになってきたような気がする。母もわたしにそんなことを言う。「目がやさしくなってきたね」って。要するに、人は何を見ているか、ということなのだろう。邪悪なものをたくさん見ていれば邪悪に、清いものや神聖なものを見ていれば清澄になってくる。と言いつつも、ポルノがやめられないんですなぁ。って全然清くも何でもないじゃん。というかさぁ、最後のこの一言で今までのいい話がぶち壊しだよ。だからですね、わたしは聖人ではないし聖人にはなれない凡人なんだってことを言いたかったわけなの。でもね、ポルノを少し見て多少濁ってもまたそれをヨガとか海のパワーで浄化してきれいにするから大丈夫。プラスマイナスで考えれば十分清い方向に進んでいるわけですよ。って何か言い訳がましくてシラーっ。水の中に一滴のインクが落ちたらその水は真っ黒になるんじゃないの、っていう最もなご指摘は棚の上に置いておくとして、ヨガと海パワーで勇気100倍、元気りんりん、星パンマン(露骨なパクリですな)。というわけでしてこれからも海を見るためにヨガの帰りには途中下車しようと思っているわたしなのです。
 だいぶあったかくなってきましたね。これから夏に向かっていきます。夏のアシュタンガヨガってどんなんなんでしょう? 道場は夏には冷房するのかな? 冬場は暖房していたけれど。まぁ、うじうじ考えていても仕方ぁがない。なるようになる。そして、何とかなる。って少々強引だけれど、アシュタンガヨガライフを満喫していきたいと思っています。海にもぼちぼち寄りつつやっていきまっしょ~!!

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