古傷を通して与えることについて考えまして

いろいろエッセイ
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 今朝もヨガの道場へ行ってクラスに参加してきた。いつもと変わりないようでありながら今日はある意味特別な日。何でもある練習生の人が転勤で道場へと来られなくなるというからだ。昨日、わたしはその人に道場で話をして「明日が最後なんですね?」という確認をした。そうしたら彼女はものすごくポジティブな言葉をわたしに言ってくれた。わたしは嬉しい気持ちになった。
 一言で言うならすごくエネルギッシュで誰とも分け隔てなくつき合えて、明るくて、とわたしにないものを持っている。そして、明日はどんな感じになるのかな、と思いつつ今日を迎えた。
 みんな彼女との別れを惜しんだ。でも、笑顔で送り出すみたいな、そんな感じさえあった。誰からも好かれていて、道場には彼女とプライベートでも親しくしている人が何人もいて、それはそれは感動的でさえあった。道場の先生も彼女との別れを本当に愛おしむかのように惜しんだ。
 が、そんなまるで学校の卒業式のような感じで進行していく様子を眺めながらわたしは気分が優れなかった。そう、古傷の痛みが疼き始めたからだ。
 高校時代がわたしにとって暗黒時代だということはこのブログでも書いてきたと思うけれど、高校の卒業式はそれはそれは苦痛に満ちたものだった。真っ先に思い浮かぶのが、卒業アルバムってあると思うんだけれど、卒業式の日にはみんな他の人に一言二言、書いてもらうよね。「今までありがとう。楽しい3年間だったよ」とか何とか。そして、名前ももちろんその文章に添えて。でも、わたしのところには誰も書いてほしいという人が来なかった。みんなは楽しそうに卒業アルバムにコメントを書き合っている。が、そんな楽しい雰囲気の中でまたしても一人、そこだけ暗い闇のスポットライトが当たっていた。
 これってかなり残酷じゃない? 要するに「お前は価値がないからそのコメントなんてほしくない」と言われているかのようだった。まさにお前のコメントなんて要らない、とのことでこの厳しい現実に18歳のわたしはひどく傷付いたのだった。
 何せスクールカーストの最底辺にいましたからね。勉強ができない。運動もできない。友達もいない。帰宅部で部活動をやっているわけでもない。性格もプライドばかり高くて悪い。表情が暗くていつも下ばかり見ている。そして、何よりも学校の中で孤立していた。そんな最底辺の奴だったからそうした卒業アルバムの出来事があっても何らおかしくなかったのだけれど、でも、わたしはわたしで、最後の最後でこんな感じだったので、怒るまでもなくただただ悲しかった。
 3年間一人で昼の弁当を食べ続けた高校時代。その他にもこんなことがあった。それは校内球技大会があって卓球の部でうちのクラスが優勝したんだ。で、そのメンバーにはわたしもいて、わたしは元卓球部だったからすごく活躍したわけなんだけれど、その優勝した後で祝賀会とでも言うべき会食があったんだ。でも、その時、わたしはその集まりに呼ばれなかった。主力メンバーとして明らかに優勝に貢献したにもかかわらず、わたしは呼んでもらえなかった。で、ここからがひどい所で、何とその祝賀会には卓球のメンバーでないのに呼ばれていた人もいたんだ。もちろんクラス全員で祝ったとかそういうわけではないから、全員ではないものの、全然関係ないサッカーに出た人とかがその祝いの会に呼ばれていて、そのことを後日知ったわたしはものすごく怒り心頭だったのを今でも覚えている。とは言いながらも、彼らが予想したようにわたしは誘われたとしても断っていたことだろう。でも、誘われて自分で断るのと、最初から誘われさえしないのでは大きく違う。
 さらにこんなことも思い出した。それはわたしが30代前半の頃の話でわたしはその日、入院していた精神科の病棟から退院することになっていた。が、またしても誰も見送ってくれる気配などない。どこ吹く風といった感じで誰にも惜しまれることもなく、ただただ一人で病棟を後にした。別の人が退院する時にはみんなで見送ったのに、わたしの場合には誰も病室から出てこない。分かりやすいって言ってしまえば分かりやすいのだけれど、これはこれでかなり堪えた。
 高校時代といい、精神科の入院時代といい、わたしには人望というものがない。なぜなのだろう、と考えてみる。胸に手を当てて考えてみる。
 わたしはみんなから愛されて好かれたいと思っていたし、そのことを願ってもいた。しかし、そのための努力を何もしていなかった。自分は何もしないでただただ与えてもらいたい。愛されたいというのは虫がいい話と言ってしまえばその通りだ。自分の前に大きな大きな壁を作って、わたしにさわることができないようにしていながら、それでいてその壁の前でラブコールを送ってほしいなどと思う。これは都合がいいを通り越してわがままだとも言える。こういうのを自己中心的な態度とかそうしたジコチューな人間だと言うのだろう。というか、みんなマザーテレサじゃないんだ。あくまでも自分に愛情を向けてくれたり、大切にしてくれる人だけに愛を示すんだ。だから、何にもしてくれなくて、いやむしろ自分の殻の中に閉じこもっていたり、最悪の場合には敵意さえ剥き出しにしてくるような人には優しくしたくなんてないし、遠慮願いたいということなんだろう。普通に常識的に考えてそうした人に優しくしたいなどと思うだろうか。そう思う人はゼロではないもののかなり少ないはず。かなりの人格者で徳の高い人か仕事か何かでそうした人に向き合わなければならないといった事情がある人くらいではないかと思う。何で、どうして、メリットも何にもない人に優しくしようとするのか。愛そうとするのか。人間、普通一般ではメリットがなければ何も行動なんてしない。いや、たとえ一見メリットがないように見えることであっても、そのない中にメリットを見出しているから行動するんだ、としか言えない。
 愛したくないけれど愛されたい。自分は他の人のことに興味関心がないけれど自分のことには興味関心をもってほしい。ギブをほとんどしないか全くしないのに見返りのテイクは執拗にどこまでも求める。誰かに愛されたいのなら尽きることなく与えればいいのではないかと今だったら思える。与えもしないのに誰かが与えてくれるなんてことはない。そんな芸当をどこまでもやってのけてくれるのは神様くらいなもので、多くの人が与えることと受けることの交換のようなものを絶えずやっている、というのが実状なのだと思う。
 与えるということは何かをしてあげることだったり、お金を与えることだったり、そういった目に見える形ではないにしても気遣いだったりといろいろある。だからこそ、「与えよ」だと思うのだ。それも見返りなんてチャチなこと考えないで、尽きることなくジャンジャン与える。そうすれば結果的にそれ以上のリターンを矛盾するようではあるけれど得ることができるんじゃないか。
 たとえばわたしが誰かにお金を払ったその見返りにその人はサービスなり商品なんかを与えてくれることだろう。それがこちらが与えたお金に見合わなければ、もちろん不満に思うだろうし、金額以上のことをしてもらえれば嬉しくなる。さらにはその金額に対して見合わないくらいいい物をもらったりサービスを受ければ、「やりすぎだ」とか「そこまでやってくれなくていい」となる。
 もしかしたらだけれど、人間関係というのも下世話な話になるものの、人と人との間で与えて受けて、与えて受けてをやっているに過ぎないのではないかと考えることもできる。その自分が与えたものと受けたもののバランスが保たれている状態が最低限そうであるべきあり方であって、受ける方が多くなれば得をしているわけだから嬉しくなって、反対に与える方が多くなると疲れてきて、さらにはそれが度を超えると「わたしはこんなにやっているのに」と不満に思うようになる。
 となると「俺は与えたくないね。何も人には与えたくないよ」という人はどうやって生きていったらいいのかという話になることは言うまでもない。それが世間一般で言うところの理由が特にないのに働こうとしない人、ということになる。この人は自分は何も与えようとはしないで人から一方的に受けようとする。だから人からあまりいい評価をしてもらえない。
 でも、たとえ何もしていなかったとしても生きているだけで、その人がこうして生きていてくれているだけでわたしは十分にその人から与えてもらっている。何もしてくれなくていい。もう生きてくれていることだけでどんな宝石や金銀財宝にも勝るよ、と考える人もいると思う。としても、結局与えて受けるというバランスがここでも取れているわけであって、あぁ、すべてはギブとテイクなんだなって思わずにはいられない。
 そういうわけで現在、無職のわたしはほぼ与えていないけれど、少なくともこうしてこのようにブログを書くことを通してわずかながらも与えることができているのではないか、と自負している。
 この文章を書いていて分かったこと。それはみんなが自分に何も与えてくれないと嘆いたり怒ったり悲しんだりする前に、自分がちゃんと彼らに何かを与えることができているかどうかと考えることが必要だということ。そして何よりも、自分がまず彼らに率先して与えればいいのではないか、という当たり前でありながらもなかなかできない基本的なことが分かったのだ。
 与えよ。それも見返りなんて求めずにどんどんザクザク与えよ。愛されることで言えば、愛されることよりもまず自分が愛する。それも熱く熱く愛する。尽くして尽くして尽くしまくる。そうすれば別に見返りなんて求めなくても相手は大抵応えてそれに見合ったものを返してくれる。これだけ与えたらこれくらい返してくれるだろうなんていう計算なんかしないで(それは贈与ではなくて交換でしかない)、ひたすら与える。
 もしかしたら一番幸せな人生は受けるよりも与える人生ではないか。昔のわたし(今のわたしもまだそうだけれど)は与えもしないでただ受けたいと願ってしまっていた。そんな都合のいい虫のいい話はない。受けたいなら与えよ。いや、受けることなんて何も考えずに与えるのが、消費することに喜びを見出すのではなくて、自ら作り出すことを喜べることこそが幸せなんじゃないか。
 といろいろ考えましたが、どう生きていく? 与えるの? それとも受けることばかり考えていくの? どっち?

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