自分がやりたいように、やりたいだけやればいい

いろいろエッセイ
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 今朝は雨だった。最近、わたしは朝散歩をするようになり、毎日のように散歩へ出掛けていた。そして50分くらいは歩くものだから結構疲れてしまって、ヨガをやる余力がない感じになってしまって、ヨガをあまりやれなくなっていた。2、3日ぶりだろうか。ヨガをやってみた。それも1時間あまり。
 ヨガをやるとスーっと落ち着く。心と体がまるで波風のない湖のようになり、雑念が消えてフラットに、平らになる。シーンと静まりかえった静けさ。そこに活動的な感じはなくて、とにかく穏やかで表情としてはかすかに微笑している感じだろうか。
 それに対して朝散歩をした後というのは、とても活発になっている。今日もお日様の光をさんさんと浴びて元気いっぱい。活動的に今日も一日頑張るぞ~、みたいな元気な感じになる。
 このヨガをやった後と朝散歩をした後との違い。すごく対照的で、一方は静かになり、もう一方は活動的になる。どちらがいいのかと聞かれるとしたらわたしは何と答えたらいいのだろうか。リンゴとみかんの違いとでも言えばいいのか、わたしは両方ともそれぞれ好きで比べることはできそうもない。
 わたしは何を言いたいのかというと、両方手に入れて両方であることはできない、ということだ。それは言うまでもなく明らかなことで、明るく、同時に暗くあることはできない。静かな状態を保ちつつ、にぎやかでいることもできない。また、ボディービルダーのような筋肉質な体でありながらマラソン選手のようなやせた体であることもできない。どれもこれも言われるまでもなく分かり切ったこと。でも、えてしてわたしたちは欲張りで同時に二つの相反するものを手に入れようと思ってしまう。そして、それができなくて極端な両者の中間を取って妥協したりなどいろいろ試みたりする。
 ヨガ的なヨガに特化したような人になりたかったら、何を置いてもヨガをやることが必要だし、そうすることが理にかなっている。ヨガを深めていきたい人が読書ばかりの日々を送ってヨガをほとんどやらなかったら、それでは目的の姿に到達することはできない。
 反対に、元気いっぱいの活動的で明るい人を目指すのであれば、それに近付くような朝散歩や筋トレなどをおもにやる必要がある。静けさを増すようなヨガや瞑想などをやっても決して明るく快活にはなれないだろう。
 自分がなりたい理想の姿があれば、それに近付くようなことをやる。何も難しいことではなくて、ごくごく当たり前のこと。
 などと書いてきたけれど、最近思うのは、その理想の姿になったところで、なれたところでそれにどれだけの価値や意味があるのだろうということだ。たしかに自分が思い描いていた理想の自分になることは嬉しいし楽しい。筋トレなどがその分かりやすい例で、自分が思っているようなひきしまった美しい体になっていくのを実感するのはすごく嬉しいことではある。日に日にたくましくなっていく自分の体。なくなっていく余分な脂肪。たしかに自己実現は素晴らしい。そのありたい自分になるために懸命に努力してそこへと向かっていくのだから。
 でも、本当に満たされている状態とはどのような状態かと言えば、筋トレしている状態ではないだろう。自分を変えようと必死になっている状態ではない。そうではなくて、今の自分に満足してそれを良しとしている状態、ではないかと思う。今を良しとする。バカボンのパパの「これでいいのだ」の境地。これでいい。これでいいってなかなか思えない。だから、みんな自分を向上させるためにあの手この手を使う。少しでも向上したい。1ミリであっても成長したい。成長していきたい。それは悪いことではない。その原動力が人を成長させ、やる気を起こして人生にハリや活力をもたらしてくれる。でも、わたしは思う。これでいいと思えている人間が一番幸せなのではないか、と。
 ここに二人の人がいる。
 一人は筋トレなどをせずに好きなものを食べて運動もほとんどせず、よく言われるだらしない体をしている。お腹は出ているし、いわゆるメタボ体型。ビールが大好きでこってりとしたものや炭水化物に目がない。とにかくたくさん食べる。でも、この人は自分が好きだ。それもすごく好きで、この突き出しているメタボ腹も「かわいい」と言って気に入っているし、筋肉らしい筋肉がなくても「別に介護が必要になっているわけでもないしいいんじゃないの」と全く気にもしていない。スマートな人はスマートな人でいい。でも、自分は自分なのであって何も比べる必要はないし、自分にはそれと違った魅力があるのだと思っている。彼女はいつも楽しそうでよく笑っていた。
 もう一方の人は、とにかく毎日のように筋トレをしている。美しい体になりたいと日々奮闘している。それだけならいいのだけれど、この人は女性で、厳しい食事制限と激しい筋トレのしすぎで生理が来なくなってしまっていた。体はまさに鋼の肉体とでも言うべく脂肪は何もない。格闘家をもしのくほどのたくましい体をしている。けれど、この人はどれだけ筋トレをして体がたくましくなっても一向にそれを良しとすることができなかった。いつも自分の体のここが気に入らない、もう少しここに筋肉を付けたいなどと不満を持っていて、まさに何かの終わりなき道を歩いているかのように今の自分に満足することができなかった。むしろ、自分のことが嫌いでそれを克服するためにはもっと筋肉を付けなければと焦ってさえもいる。彼女は何かにとりつかれたかのように、ただ黙って毎日筋トレをし続けている。
 これでいいと思えているかどうか。今の自分とその生き方を良しとしているかどうか。つまり、自分らしく生きることができているかどうか、ということ。
 さきに二人の両極端な二人を挙げたけれども、わたしは何も後者をダメだとか言いたいわけではない。そうではなくて、今の自分を良しとすることも必要ではないかと言いたいだけなのだ。どちらの方が(自己鍛錬を必要とせず一切やらない人と過剰なまでに自分を鍛え上げる人)価値があるとかそういうことを言いたいわけではない。ただ、何だか例として後に挙げた人自身がすごく気の毒なように思えるのだ。
 とは言ってもここはすごく難しいところだと思う。何もやっていない(ように見える)人はもっと頑張った方がいいのか、そしてやりすぎている(ように見える)人は現状に満足することが必要なのか、というのは人類の歴史において常に問いかけられてきた問いであるかのようにも思えるからだ。つまり、人はどこまで頑張って良しとすべきなのか、ということなのだ。が、これに一律に「こうすべきだ」と絶対的な解答を示すのはすごく難しそうだし、というか無理なのではないかと思う。多くの人はこれを判定するために社会常識を持ち出す。けれど、多くの人が考えているこれくらいやるべき、これくらいで満足すべきという基準はただ多くの人がそう考えているというだけのことであって、神様の基準ではないのだ。だとしたらどう考えたらいいのか。うーん、とうなってしまう。
 というかもうこうなったらツッコまれること覚悟の上で、本人がやりたいだけやればいいんじゃないですか、と言うしかない。しかし、本人以外のいわば外野はいろいろ言うことだろう。「お前は努力が足りない」「お前はやりすぎだ」などと言って。けれど、所詮それもその人の基準でしかなくて「何を根拠に?」と聞かれれば「それが普通だからだ」とまたしても社会常識を持ち出すか「自分はこう思うからだ」などと言うしかない。説得力はないに等しいようなものだ。このように他人はいろいろ言う。けれど、やるのは、やっていくのはその人なんだ。そのジャッジして口を挟んでくる他人ではなくて本人なんだ。だから、やりたいだけ満足するまでやればいい。ただ、どこかで「これでいいのだ」って思えないと永遠にどこまでもやり続けることになってしまうよ(まぁ、永遠ではなくて死ぬまでだけれど)、と一言釘を刺すことは忘れないようにした上で。
 だから、答えは自分の中にあるんじゃないか、と思う。おそらく外部にはない(まぁ、神様という外部に答えを求めていく生き方や誰か特定の他人の言いなりになって生きていくという生き方もないわけではない)。ただ自分自身に問いかけて自分自身の素直な気持ちを引き出し、それを感じる。それこそが本当に自分が求めていることだろうし、どこまでやりたいかっていうことだとも思うんだ。乱暴なようだけれど、自分がやりたいならやればいいし、やりたくないなら、やめたいと思うのであればやめればいい。なぜなら、やるのは他の誰でもない自分なのだし、自分の人生の有限な時間を使ってそのことをやるのだから何も他の人にお伺いを立てる必要はないのだ。
 やりたいようにやってください。人や自分を傷付けたりしない範囲で。って結局こうなるわけか。乱暴なようでもっともなシンプルな結論に至ったところでこの文章もお開き、お開き。ここまでご静聴ありがとうございました。感謝です。



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