「やらなければならない」を乗り越える

 だるい。何か調子がよくない。天気も悪く、雨が降っていて気分も滅入る。こういう日はアクティブな活動はせず寝ていたい。
 けれど、わたしにはやらなければならないことがある。昨日、今日やることを書いたんだった。それによると、今日のノルマは、執筆2時間に、放送大学の勉強3時間に、運動を1時間ということらしい。「らしい」と書くのは昨日のわたしが計画したスケジュールだからだ。毎日フルタイムで仕事をしている人から見たら、わたしのノルマなど大したことはないのかもしれない。しかし、わたしにとってはなかなかきついのだ。
 昨日は祖父がいる施設に母と一緒に行ってきた。コロナ禍だったから、検査を事前に済ませた母だけしか祖父とは会えなかった。一名様限定ということだった。午後の2時頃行って帰ってきたのが4時半。これだけ聞くと大して大変ではなさそうに思われるかもしれないが、わたしはさて置き、母は大変だったらしい。2時頃施設内の祖父のところへ向かった母はそれから1時間もとっかえひっかえ(という表現もおかしいが)、次から次に祖父に関わっている専門職の人々から説明を受けたのだった。老人を施設へ入れたらそれでお終いではないのだ。スタッフとのやり取りを家族はしなければならないのだ。特にキーパーソン(中心人物)は大変なのである。そのキーパーソンの母が大変な思いをしている間、祖父のいる施設の2階へ行けなかったわたしは、1階で待機していた。その時、わたしはどうでもいい話かもしれないが、芥川龍之介をkindleで読んでいたのだった。母が終わって1階へと戻ってきたのが3時半?(記憶が不確かなので3時だったかもしれない)だったから、わたしは少なくとも芥川を1時間は読んでいたことになる。ここだけの話、小説を二作品も読み終えてしまいましたよ。本当、はかどったなぁ。だが、さすがに芥川の傑作小説が面白いとはいえ、1時間経ったころには集中力も切れてきて、母のケータイへ電話しようかとも思った。が、我慢した。そうしたら、そうしてしばらくしたら母が戻ってきたのである。
 わたしが今日疲れていてだるいのは、今話したように、昨日行ってきたからということもあるのだろう。だるいのである。倦怠感なのである。
 さて、昨日の出来事はそれくらいにして、話を冒頭のことへと戻したい。
 計画。そもそも計画は何のために立てるのだろうか。と、今までこういうことは考えてこなかった自分の浅はかさに気が付く。何のため? 時間を無為に過ごさないようにするためだろうか。怠けないようにするためだろうか。いや、もっと根本的なことを言うならば、「幸せになるため」だ。うん、そうだそうだ。すべての営みはわたしが幸せになるためにやっているのだ。(のはずだ。)
 放送大学の勉強を3時間やるのも、執筆を2時間やるのも、運動を1時間するのもすべては幸せになるためだ。幸福になるため。幸福になるためにこれらをやるのである。
 しかし、それがどうやら本来の目的を見失って、ただやった方がいいからとか、やらなければならないからとか、やらないとまずいからなどといった理由になってしまっている。そうだ。そうなのだ。本来はやらなければならないからやるのではないのだ。やることが自分の幸福に寄与するからやるのである。いやはや、本来の目的を見失っていたわたしであった。
 放送大学の勉強もそれを通して人間性を成長させ結果としてわたしが幸せになるためにやるのである。執筆だって文章を書くことは読者へのサービスであり奉仕であることはあるのだけれど、回り回ってそれがわたし自身を鍛え上げて成長させるのだ。だから、執筆もわたしのやりたいことでもあり、幸福へとわたしの場合確実につながっている。運動もそう。肉体的に健康を増進させてわたしの人生を豊かにしてくれる。つまり、幸せにつながっていくのである。放送大学の勉強、執筆、運動。これらはすべてわたしの幸福のためにやっていることなのだ。それなのに、それなのに、わたしときたら本来の目的さえも見失ってやらされ感さえ発生し始めていた。やらされ感を感じてしまうなんて目的を見失っていることのたしかな表れではないか。
 だから、これらをやることが苦しくなってきたら休んでもいいのだ。別にこれらをやらなければ罰せられるわけでもない。やめたければいつやめたっていい。やるのも自由。やめるのも自由だ。
 これらがやらなければならないことではなくて、やりたいことだった時、わたしは活き活きと取り組んでいたように思う。いつから目の輝きを失ってしまったのだろうか。
 やらなければならないからやるのではない。やりたいからやるのである。どうしてもわたしたちは本来の目的というものを忘れて、見失って、気が付くと義務感ややらされ感でそのことに取り組んでしまいがちである。そうなってしまいがちではあるけれど、原点というか、本来の目的を見失わないようにしたいと今回ひしひしと思った。まさに原点回帰である。
 ここまで書いてきてだるいのは変わらないけれども、胸の奥からやる気のようなものが湧いてきた。やはり、物事というのはやらされ感や義務感からやっている場合、疲弊してくるのだろう。やらされているのではない。わたしがやりたいからやるのである。
 目的は大切なものである。それ次第で生き様は変わってくるのだから。


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