自分が正解だと思えばそれが正解

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 何事も自分が正解だと思えば、正解になるのだと実感したのです。(いしかわゆき『書く習慣』p26)

 この言葉に出会った時、わたしは目からうろこが落ちた。衝撃を受けたというか、あぁ、そうだなぁと思った。本当ね、このいしかわさんの言葉、鋭くない? 何て言うか、本当核心をついているというか。
 わたしを含めて結構多くの人がそうじゃないかと思うんだけど、いろいろなことに正解を求めてしまわない? お料理を作るにしても、文章を書くにしても、歌を歌うにしても、どの食べ物を食べるかということにしても。とにかく自分がやっていることが正解でありたい。正しいやり方で正しいものに従ってやる。
 もちろん、自己流でやるのが必ずしもいいわけではなくて、最初は真似をする。お料理なんかでもまず最初はレシピを見てその通りに作る。そして、作り方とか基本を覚えていく。でもね、つきつめて考えていくと、その作り方が絶対的なものではないんだ。カレーだったらたしかに基本の作り方はある。けれど、その作り方以外のものではダメかと言うとそういうわけでもない。各自が作りたいように作ればいいのであって、何が何でもマニュアル通りでなければならないなんてことはないんだな。
 このいしかわさんの考え方は自分のあり方とか信仰においてもあてはまると思う。こうでなければダメなんだ、なんてことはそもそもない。とは言っても、自分や他人を傷付けたり、他の人に迷惑をかけることはダメだけれど、そういったことでなければ何だってアリ。そう考えるとすごく開放感があるし、解放感だってある。
 何か自分自身を振り返ってみると、今までこうあらねばならないっていうのにがんじがらめにされてきたなって思う。勉強は一日に○時間やらなければならない。クリスチャンだったらこう生きなければならない。健康的に生きるのであれば毎日これをやらなければならない。べき、べき、べき。これをやらなければ、これを守らなければ正解ではない。そんな思いでやってきたような気がする。
 自分が正解だと思ったらそれが正解。このシンプルな考え方、すごくいいと思う。でも、まわりの人とか世間とか、他の人たちには彼らなりの考えがあるから、必ずしもほめられたり認めてもらえるとは限らない。でも、いいじゃないの。彼らには彼らそれぞれの正解があって、わたしにはわたしの正解がある。それを戦わせてどっちが正しいとか、どっちが正解なんだとかって決めなくてもいいじゃないの。いしかわさんのこの言葉に出会って、「人の数だけ正解がある」というどこかで耳にした言葉の意味が何となくつかめてきた。もっと正確に言うなら、「人の数だけ彼らなりのそれぞれの正解がある」ということなんだろうな。
 本当の正解、それも絶対的な正解があるのだとしたらそれは神様にとっての正解だけじゃないかな。でも、それは神様だけがご存知のこと。その神様の正解が示されているのが聖書であって、それに従えば大丈夫って考える人もいる。でも、その神様の正解とされている正解も本当に神様がそうお考えになられているかどうかっていうのは絶対そうだと断言することはできない。な~んて、キリスト教徒のわたしが言ってしまっていいものかというためらいはある。でも、もしかしたら聖書で神様が言われたということになっている言葉は人間が神様に言ってもらいたかった言葉でしかなかった、なんてこともあるかもしれない。つきつめるとわからないのです。「ってオイオイ」ってツッコミが来そうだけれどわたしはそう思う。わたしは神様がその聖書のみことばを言われたものだとおおかた信じてはいるけれど、一方で絶対視するところまでは行っていないんだ。
 正統派、正しいとされている考え。正しいとされているやり方。方法。もちろんそれはあることにはある。でも、それらを踏まえた上で、自分なりの正解を表現できていけたらって思う。自分がこれが正解だと思うもの。つまり自分がいいと思えること。それが正解なんだと自分を認めて「そうだね」って言ってあげたい。それが自分らしさであり、個性ではないかなって思うんだ。
 自分の人生。歩んできた道。ここまでやってきたけれど、それは正解だった。そして、これからも自分が正解だと思う道を歩いていく。で、いいんじゃないかな。

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