メリット再再論ーカントの定言命法を絡めながら

いろいろエッセイ
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 今朝、読書をしていたらすごく感銘を受けたことがあるのでそのことを書きたい。それはメリットについての哲学者カントの考え方で、わたしはうなってしまったのだ。
 何にうなったかと言えば、カントの定言命法。彼はメリットがなくて、たとえ、ばかを見ることになったとしてもこれを守るべきだとわたしたちに言うのだ。
 人にしてほしいことを相手にしなさい、といった格言がある。それとか、人にしてほしくないことは相手にもしてはならない、というほぼ同じ内容の言葉もある。でも、これらは突き詰めて考えると、自分が相手に親切にすれば親切をお返ししてもらえるから、という意味合いが濃厚で、要するに見返りを求めているのだ。
 わたしの知人にこんな人がいる。自分は見返りなんて何も求めていない、と頑なに主張するのに、見返り、つまりはお返しがないと「あの人はお返しも何もよこさない」と怒り出す人が。
 でも、わたしはこの人のことを悪く言うことはできない。五十歩百歩、どんぐりの背比べみたいなもので、わたしの場合も意識に上らせなくてもどこかで親切にした相手からの見返りを期待しているところがあるからだ。
 人には親切にしましょう。そうすればみんなから好かれて優しくしてもらえるよ。となれば、これはもうすでに取引きをしているようなもので、自分が与えることによって同じだけかそれ以上の見返りを期待していることを意味する。
 カントはそれに対して見返りがあってもなくても、ましてや自分が損をすることになっても守るべきことは守れと言うのだ。理由はそれが義務だから。義務だから守らなければならないのだと。定言命法とは簡単に言ってしまえばこのようなもので、すべきだからすべきなんだと同語反復しながらも、とにかく義務を果たせと言う。
 なかなか、いや、かなり厳しいことをカントはわたしたちに要求してくる。メリットがあるから何かを守るのでは、メリットがなくなれば好き放題になってしまう。そのことをしっかりと見通しているカント。
 人からほめられるから。お金がもらえるから。やさしくしてもらえるから。尊敬してもらえるから。メリットはいくらでもある。でも、そのためにやるのだとしたら、そのために何かを守ったり、いいことをしたりするのはどうも違うのではないか。もちろん、結果的にいいことをすればそれでいいだろ、みたいな考え方もないことはない。けれど、すべきだからする。守るべきだから守る。その方が高尚ではないかとわたしは思う。何かごほうびとか見返りがあるからそれをやるという不純な動機の人の場合には、そのメリットが消えるやいなや、見返りが期待できないとなるとすぐに手のひらを返したかのように態度を変える。なぜなら、そのメリットが動機であって、それ目当てで行動していたのだから当たり前のことだ。
 分かりやすい例としては、二人の人がいるとして、どちらの方が望ましいかと考えてみればはっきりとする。見返りがあるがゆえに何かをやる人とそういったものは一切求めないで同じようにそれをやる人。どちらの方が純粋だろうか。言うまでもなく後者だ。
 今までわたしは人間はメリットがなければ何も行動しないと思ってきたし、その実感の上で人生というものを生きてきた。けれど、どうやらそうではなくて本当にメリットがなくても行動する場合もあるらしい、ということにカントを通して気付かされた。と言いつつも自分の信念に従う。そのことにメリットを見出しているんじゃないか、と反論されるとたしかにそうかもしれないとも思う。ということは結局メリット? メリットがなければ人間はダメなんだろうか?
 うーん、難しいところで結局メリットを感じることしか人間はやらないようにも思えてきた。となるとカントの定言命法も結局は自己満足的なものにしかすぎず、メリットを目当てにしているという疑いをぬぐい去ることはできないのだろうか。でも、そう言ってしまうと身も蓋もないよな。
 旧約聖書のヨブ記でサタンが「利益もないのに神を敬うのか?」(つまり、利益もないのに人間は何か行動を起こすのか?)と言っているその言葉がまるでわたしの全身を悪魔だけに蛇がしめつけているような、そんな状態となっている。何をやっても、どんなに高尚なことをやったとしてもそういったことも所詮は自己満足なんだろ? 自己満足という、自分の信念に添い遂げるという、見返りを求めているだけにしかすぎないんだろ、ということになる。
 っておいおい。前半のいい話がぶち壊しだよ、まったく。
 一般的な意味で普通に考えれば見返りを求めない、メリットとは無縁の行いというものはある。でも、それさえも煎じ詰めて、「それって本当はどうなのよ」と詰問していくと結局は人間がメリットを得ようとしているという姿があからさまになってくる。つまり、結局はメリットから人間は自由になれないのです。ちゃんちゃん、ってそれでいいか疑問ではある。けれど、それがわたしの現段階で考えるところの真実のようなので、それを受け入れるしかない。悪魔は、サタンはやはり手強かった。ヨブ記に出てくるサタン、手強いな。やっと抜け出せたかと思ったのに、実は悪魔の手の内でわたしは踊っていただけ。今度こそはと思ったのにまたもや撃沈なわたし。
 しかし、しかし、ふとわたしは気が付く。たとえ人間がメリットから自由でなくても、損得や利益などから自由でなくても、一般的な意味で言うところのメリットを求めない自己犠牲的な行動の動機は高尚なものなのではないか。それを結局は自分が気持ちよくなるためにやったに過ぎないなどと言ってしまっていいのか。たとえそれが突き詰めれば自分の信念に従ういわゆる快感(とまでは行かないけれどうっすらとしったプラスの感情はあったと思う)がゆえの行動だったとしても、それはけた違いに英雄的な行動だし賞賛に値するのではないか。何も得をすることがないのにそれでも自分の良心に従って行動する人。それは尊いのではないか。たとえ厳密には自らの快感を求めての行動だったとしても、それを下世話な見返りを求める行動と一緒くたにしてしまうのは何か違うように思える。両者は全く異なっている。あからさまにはっきりとした見返りを得るためだけに行動した人と同じにしてしまうのはその高尚な見返りを求めなかった人に対して失礼なような、そんな気がしてきた。たしかに両者とも厳密に言ってしまえば見返りを求めていることは同じだ。でも、程度が違う。明らかに違う。その差は雲泥の差のようなものだと思うし、このことは誰しもが直感的に思うことだろう。お駄賃目当てでそのために肩たたきをした子どもと何ももらえなくてもした子ども。助ければ大金がもらえるからと人を助けた人と何ももらえなくても助けるべきだと思って助けた人。全く両者は違うじゃないか。明らかに後者の方が純粋だし、その行為はきれいなわき水のように透き通っている。っていやいや、そんなことはない。どちらも同じことをしたんだから何も変わらないんだ、と詭弁を弄する人がいるとしたら直観的に感じてみてほしい。どちらの人の行為の方が尊いのか、と。同じことをしたのであれば見返りを求めていない方が明らかに美しいし、倫理的にも素晴らしいと思う。お金をもらったから肩たたきをした子どもとそれと同じような理由から人助けをした人はお金をもらえなかったら同じようにそのことをしていたかどうか怪しいのだ。これもひどくなってくると、見返りの大きさを予測して、金持ちは助けたり親切にしたりするけれど、貧乏人は助けるどころか「いい気味だ」とその人に悪態をつく、といったことになるのかもしれない。
 露骨に見返りを求めて何かをするのと、一般的な意味で見返りを求めないで快く行うのでは明らかに違う。たとえ厳密には両者とも利益を求めているに過ぎないとしてもそこには大きな差がある。カントはこのことを常識的に考え抜いてあの定言命法について語ったのではないか。そんな風にも思えてきた。
 見返りが期待できるから。リターンがあるから、ではなくて、それはすべきだからすべきなんだと考える。わたしはとても強い、そして厳格なこのカントの思想にめぐりあって変えられたように思う。すべきなのはすべきだからであって、それは義務だから義務なんだ。この同じ言葉の繰り返しに力強さを感じつつ、自分自身の義務について考えていきたいと思った6月も終わりの少し暑い日のこと。
 義務、すべき、見返りを求めない、か。深いな、これ。

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