わたしの幸福論

いろいろエッセイ
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 楽しく幸せに毎日を暮らせているかどうか。難しいことは抜きにして、それさえできていれば何も問題はないような気がする。
 人は幸せになりたいと誰しもが思う。誰が自ら好んで不幸になったり、そうであることを望むだろうか。
 その楽しく幸せに毎日を暮らせているかどうか、という基準で今のわたしの暮らし、生活を判定してみると、まぁいいんじゃないかと思えてくる。お金に困っているわけではないし、精神疾患こそ抱えているものの体の健康上の問題も特にないし、母と二人楽しく毎日を送れている。
 が、人間というのは欲張りなもので、現状に満足しようとせずに、もっともっととさらに上を目指してしまう。もっとお金があったら、もっと広い家に住めたら、猫をあと3~4匹飼えたら、社会的な地位や名誉が得られたら……などとそれらを手にしている人を見てはそれができていない自分自身にため息をついてしまう。
 人が持っているものってなぜかキラキラ見える。すごくいいものを、それも自分が持っていない、いいものを持っているかのように見える。でも、大抵そういう場合、キラキラを見せる人というのは自分の「実は……」みたいな苦労話はしない。そこで語られるのはきれいな部分だけであって、表向きのよそに見せる面だけだ。
 お金持ちにはお金持ちの苦労があるらしい、ということをいつか知った時、何だか目が覚めるような気がした。お金持ちって楽じゃないのよ、みたいな。教会に裕福そうな重役みたいな感じの人がいたのだけれど、部屋がありすぎてもお掃除が面倒で、とか草刈りが大変で、などと贅沢な悩みをこぼしていたっけ。家が広ければ、その税金もきっと高いに違いない。維持するだけでも一苦労だろうし、そして相続ともなれば一世一代の大仕事となる。中には醜い相続の争いが発生する家もあるかもしれないし、お金があればきっとみんなお金持ちの人は言わないけれどたかってくる人も多いことだろう。
 広い家に住みたい。でも、そこで楽しく誰かと住みたい。ひとりぼっちは嫌で結局、誰か人とのふれあいを求めることになる。
 というか、広い家に住めばすべての問題が解決されるのだろうか。もうそれだけで幸せそのもので、何もいらないというくらいになるのだろうか。
 わたしが思うには結局その人の心のあり方なのだと思う。どんなに人から見て素晴らしい環境や暮らしぶりであっても、それに満足できずにそれでも不平不満たらたらであればその人は幸せになれない。一方、どんなに貧しくても心がしっかりと幸せをつかんでいれば、そんな貧しさとは関係なく幸せな気持ちでいることができる。もしかしたらだけれど、物事はほどほどがいいのかもしれない。ありすぎてもダメだし、なさすぎてもダメ。それはお金にも家の広さにも言えて、やっぱり過剰であったり欠乏していたりではダメだと思うんだ。ほどほど。いい案配。そんな感じになれば幸せを感じることはやさしくなる、きっと。
 が、人間というのは高みを目指して、求めてしまうもので足ることを知ることがなかなかできない。もっと、もっとと求めてしまう。でもさ、ほどほどでいいんじゃないの? 熱すぎず冷たすぎず、ありすぎずなさすぎず。ってすごくありきたりなことを言っているようだけれど物事の真相というものは案外こういうものなのかもしれない。
 もちろん、何かの道をプロフェッショナルとしてまるで芸術家か何かのように、道を求める人のように邁進していく、という生き方もある。でも、それは少数の本当に精鋭の人たちだけが目指せばいいだけの生き方であって、万人向きかと言えばそうとは言えないと思う。
 星さん、甘いよ。何かを極めてこそじゃないの? 中途半端にぬるま湯につかってそれで良しだなんて甘えてるし、全然進歩向上していこうっていう心意気が感じられない。全然なってないよ。
 そう言われたらわたしはこう言う。じゃあ、どこまで行ったらそれは極めたことになるの? 現にこの世界は進歩向上をまるで宗教か何かのように至上の使命として邁進して信奉してきたけれど、どこまで成長したら終わりなの? どこまで行ったら良しとなるの? 貪欲さというのは人間を滅ぼすんじゃないの? どこまでも成長していこう。進歩していこうって思った先にあったのは満たされない精神的な荒廃と環境破壊と結局これって何のためにやっているの、っていう疑問が芽生えたことだけ。もちろん、この進歩向上教とでも言うべき宗教によってとても生活は便利になって暮らしの質は向上した。でも、それだったら満たされているはずで幸せなはずの先進諸国でここまで精神的な病が増えているのはどうして? それはやっぱりそうした方向性でやってきたことのひずみなんじゃないの? そのひずみが出てきているんじゃないの? だからわたしはほどほどがいいと思います。貪欲さはどこまで行っても満たされず渇き続けるだけで現状を認めてそこに幸福を見出すことができない。ほどほどでやめて、そこで立ち止まって今自分が持っているものを味わう。それも満更捨てたものではないどころか素晴らしいものだよ。それこそが足るを知るということだと思う。でもね、わたしがほどほどっていうのは、ある程度シャキっと何かに取り組むことも必要だと思うからで、極端な行き過ぎを戒めているだけで努力や適度な進歩向上はやっぱり必要だと思っている。このことは付け加えて言っておきたい。
 ほどほどに何かを頑張り、あまり根詰めすぎないでほどほどのところで休む。そして、それを繰り返す。そんな調子でやっていたら急激な成長は望めないと人は言うかもしれない。でも、もうこの社会も人も十分に成長してきたし、進歩向上してきた。だったら現状維持か低成長でいいんじゃないかっていう気がする。高齢者のリハビリで大事なことは今の状態から向上することではなくて、いかに今現在の筋力を維持してそれを保っていくかということ。要介護の人にライザップ式の筋トレをやれ、だなんて言ってもそれは無理だし、そこまでやる意義はない。それよりもいかに現状を維持するか。そして、ほんの少しの希望としてわずかであってもいいから良くなってくれたら、と維持を基本に据えながらもその望みは希望として持ち続ける。だから、現状を維持していくことはダメなことではない。むしろ、今の世の中というのは飽和点と言ってもいいところまで来ているから、もうパワーアップするとしてもそう向上は望めない。
 そもそも何のために人は頑張っているのかと言えば、幸せになるためじゃなかったの? それがだんだん本来の目的を見失って頑張るために頑張るという風になってきてしまっている。頑張るために頑張るって、頑張ること自体が快感で気持ちがいいっていうだけのこと。でも、本来は幸せになるために、幸せになりたくて頑張っていた。だとしたら、頑張ること自体は悪くはないのだけれど、頑張りすぎて体調を崩したり、自分自身の幸福を損なっているようであれば、やっぱり考え直す必要がある。幸せになる、という目的を取り戻せば本末転倒とでも言うべき頑張り方はしないだろうし、現在位置を見失うこともないだろうと思う。
 楽しく幸せに毎日を暮らす。これに尽きると冒頭で述べた。そのために必要なものは人それぞれ違うのが面白いところで、ある人にとって必要なものが別のある人には必要とは限らないところがこれまた面白い。だから、自分の幸せの形を探していく必要がある。自分は何をやっている時が一番イキイキとしていて、幸福感を感じることができて、そして一番無理がないのか。そういったものが見つからない人であっても、自分が何をやるのが嫌で何をやると気分が悪くなるのか、という逆の方向からアプローチしてみるのもいいかと思う。嫌なことをやらない、というとワガママなようなだけれど、決してそうではない。それこそが一番自分自身にとってやさしい態度なのだ。
 楽しく幸せに毎日を暮らす。そのために必要なものは案外少ないのかもしれない。そして、そう考えるといかに自分がどうでもいいさして重要ではないことにかかずらわっているかということにも気付かされる。幸せとは案外シンプルなものなのかもしれない。余計なもの、必要のないもの。そういったものをそぎ落としていった先には大切なものだけが残る。わたしはそんな大切なものに囲まれて生活していきた。それこそがわたしの願いであり、幸福なのだとも思う。
 以上がわたしの拙い幸福論。何かあなたにとって1つでもヒントになるものがあったらぜひ取り入れるなり、参考にするなりしてみてほしい。いや、でもわたしは激しい急成長を続ける人生を送りたいんだ、というのであれば止めはいたしません。でも、そんなあなたもまたわたしの幸福論へと戻ってきてくれたら嬉しいかも。ま、楽しく行きましょう。

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