ポンコツならポンコツでいいじゃん

いろいろエッセイ
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 昨日から太腿の後ろとお尻が痛くなり出して今日のヨガ教室を欠席したわたし。何が原因かなぁ。この前やった縄跳びかなぁ。それとも座り方が悪くて痛めたか。ともかく原因は分からないのだけれど痛いわたくし。個人的にやっているヨガもお休みした方がいいかも。
 というわけでヨガ教室へも行かず、母もお出かけということでお家で一人になってお留守番の星。それでネットで、「エッセイストになるには」って検索したんだ。こうしてやっているエッセイが仕事としてつながっていったらいいな、というささやかな願いから検索したんだけれど、その結果は厳しい現実を見せつけられただけで終わってしまった。
 まず、エッセイストというのは知名度があることが必要な条件らしい。タレントの○○さんが書いた文章と我らが星さんの書いた文章。二つ並べられたら絶対星の方は「それ誰? 知らないな」でスルーされるでしょ。そしてタレントの方が注目されてそしてその文章は多くの人の関心をひいて読まれる。
 あるいはタレントではなくても東大の大学院を修了しているとか、お医者さんであるとか、学者さんであるとか、ピアニストであるとか、とにもかくにも箔がある人。そういう人の文章は価値があるとされてこれまた読まれる。それもたしかにそうで、東大卒、東大院卒の人の文章と星のように放送大学中退というほぼ高卒と変わらない人では絶対読みたいと思われるのは前者でしょう。どんなにわたしがきらめくようないい文章を渾身の思いで書き上げたとしても、「放送大学中退じゃろくなこと書けないだろ」で終了して門前払いで読んでもらうことさえかなわない。
 険しい世界で勝ち抜いていこうとしているわけだから、他の人にはない強みがなければダメ。たしかにもっともではある。というか、もっともだ。わたしのブログのアクセス数がわずかしかないのはやはりもっともなことだったのだ。だてに理由がなくて少なかったわけではないのだ。
 何かさー、ここまで言われちゃうと返す言葉がないわけよ。まるでそれは「お前はポンコツだからお前の書いたものには価値なんてないし、言うまでもなく本にして出しても売れないし、そのまま底辺ブロガーとして好きにやってて」って言われているような感じがしてくるわけ。そこまで露骨に言わなくてもいいじゃない、とも言いたくなるけれど出版社だって慈善事業でやっているわけではないのだから売れるかどうかって第一に考えるのは至極当然なこと。売れそうもない本は出版いたしません。以上、ってわけだな。
 「わたしの文章読みたい人、それもお金を出してまでも読みたい人、手あげて!!」って言ったら母と精神保健福祉士のWさんとあと数名指で数えるくらいしかいないことだろう(いや、Wさんも案外シビアに「申し訳ないんですけど買いたいとまでは思いません」って断るかな?)。それで採算が取れるのかと言えば、それだったら最初から出版しない方がいいに決まっている。いわば記念誌的な感じであればいいのかもしれないけれど、わたしが狙っているのは商業的な成功なのだ。
 で、気持ちがくさくさしてきた。箔をつけるためには大学受験をして難関大学に入り直すか、何か難しい資格にチャレンジするか、はたまた文学賞の新人賞を取るか。そういったことをして何者かにならなければわたしのエッセイに注目してもらうことはできないのだ。自分がどうしようもないポンコツのように思えてきた。ネガティブな感情に珍しくも押しつぶされそうになる。
 と、2階へ行く。2階には猫のルルがいる。扉を開けるとしきりにニャーニャー鳴いている。ジャンピングスリスリまでしてきた。これは、これは、ごはんがほしいということですな。母からは4時にごはんをあげておいてと言われていたのだけれど、まだ3時15分。しかし、声を枯らしてまでしきりに「めしくれ、めしくれ」と鳴き続けていたので根負けしてあげることにした。その時、何だか自分のなかで張りつめていたものがふっとほどけたような気がした。
「ポンコツならポンコツでいいじゃん」。
 今、ルルの頭の中にはごはんのことしかない。ルルの生産性を考えていくとほとんど皆無だ。ごはんを食べて、ごろごろして、うんちして、寝てのサイクルを繰り返しているに過ぎない。ポンコツという言葉をもし仮にルルにあてはめようとするなら、ルルもわたしと同じようにポンコツじゃないか(猫がポンコツとかいうのは普通言わないけれど)。でも、ルルが自分がポンコツだとかそんなことを思ったりして悩まないし、そんなこととは無縁のまま生涯を終えるのだろう。それは猫の能力が低いということでもあるのだけれど、それでも何だかそんな何も気にもとめないルルがとてもわたしにはほほえましく思えた。言うまでもなく人間はああでもない、こうでもないと考えすぎなんじゃないか。自分のことをポンコツだと思ってくさくさしたり、イライラしたり勝手に自分で自分自身をその状況に追い込んでいるだけで、いわば独り相撲をしていただけじゃないか。自分で自分の首をしめて苦しんであがいている。そんな滑稽な図が次第に見えてきて笑ってしまった。
 エッセイストになって活躍できるのなら活躍したいと思っている。そのことに変わりはない。けれど、それは選ばれた精鋭にだけ許される特別なお仕事だとも言える。もしエッセイストに本気でなりたいのならぐだぐだしがないブログでエッセイなど書いていないで新人賞でも取ることを考えた方がいい。しかし、ふと自分は何のために書いているのだろうと自分自身に問うてみると有名になってたくさんお金を手に入れるためだけではないようなのだ。この書くという作業を通して、自分を見つめ直し、より深く思考できるようになりたい。そんな願いもあるようなのだ。有名になりたい。そして、多くの人に自分の文章を読んでもらいたい。それはサッカー少年がプロサッカー選手になりたいと思うのと同じようなこと。でも、何か有名になりたいと思う反面、有名にならなくても、なれなくてもいいような、そんな気持ちもある。この揺れている二つの思い。
 わたしはこのしがないブログで自分のエッセイをひたすら発表し続けるだけで生涯を終えるのかもしれない。そうなったらそれはそれでいい。それもまた味がある。NHKのEテレににゃんちゅうというキャラクターがいるのだけれど、彼が今年で30周年ということで特別番組をやっていた。それと同じようにわたしもしがないブログを30年続けたら何か得られるのだろうか、と思ってみたりもする。石の上にも3年どころか、しがないブログに30年か。それはそれでまた面白そうだ。このブログ、おそらく30年やっても誰からも注目されないことだろう。そして、アクセス数はいつも10とか12くらいで、みたいな。それはそれでいいのかな。そうなったら「底辺ブログで30年」みたいな本を出せるかな? って結局狙ってるんかい!! とまぁ、ご冗談はこれくらいにしてこれからもわたしのブログを楽しんでくださいませ。あ、今思ったんですけど30年も続ければ誰も文句言えませんよね?(ニヤリ)

 追記
 この文章を書き終えてから自分の言葉が暴力的であることに気付かされ、ボツにした方がいいのではないかと思った。何よりも「ポンコツ」という言葉が良くない。この言葉からは何か欠陥品とか欠損品、使い物にならないみたいな意味合いが読みとれて実に不快な言葉だ。が、わたしが自分のことをポンコツだと思った。それもエッセイストとして活躍している人と比べてポンコツだと思ったということは事実なので、その点はご容赦願いたい。けれど、わたし自身をポンコツだと言ってしまうと、普通の人たちすべてをポンコツだと言うことになる。それは正しくない。正しくはエッセイストとして活躍されている方が普通ではなくて飛び抜けた精鋭なのだ。
 もし仮に誰かある属性を持った人たちのことをポンコツだと言うとしたらそれこそ差別的な発言であって容認されるものではない。現にわたしは精神障害者(その中でも統合失調症)であって、そんなわたしのことを誰かがポンコツだと言おうものならそれこそ怒り心頭ものだし容認できない。ましてや差別用語である気違い呼ばわりされようものなら断固として抗議する。そんなわたしであるのに、このポンコツという言葉を一番使ってはいけないと分かっているはずの立場であるはずなのに、軽はずみにこの言葉を使ってしまったこと。このことをお詫びしたいものだと思う。あと、自分の飼い猫のこともポンコツ呼ばわりしているけれども、これも不適切だった。ルルは普通の猫であってポンコツではないし、仮に何らかの障害などがこれからあるようになっても決してポンコツではないし、そう言ってはならない。
 誰にでも欠けている部分はある。しかし、それさえもポンコツ呼ばわりするのはいただけないし、倫理的にも望ましいとは言えない。
 その人のできないこと、至らないこと、欠けていることなどをポンコツという言葉で揶揄するのではなくて、それすらもやさしく包み込む。そんな姿勢が今後この社会においても求められていくようにも思う。
 たしかに何か競争をすれば勝ち負けが発生してしまうのは事実ではある。けれども、それすらもある基準を用いた場合の勝ち負けでしかなくて絶対的な意味での勝敗ではないのだ。言うならば乱暴に優劣をつけているだけだとも言える。本来は物事には勝ち負けなどはない。ただ二つのものだったり両者がいて、それぞれ異なっているというだけだ。それを人間は安易に勝ち負けという分かりやすい尺度で判断したがる。文学賞であっても一等賞はおのずと出てくる。が、その一等賞が100%優れているかと言えばそんなことはなくて、たしかに優れてはいるだろうけれども別の判断基準を持ってくれば別の作品が受賞していたということも考えられるから絶対的なものではない。芥川龍之介がたしかそんなことを小説にしていた。文学作品に対してすべてこれは何点、これは何点と表示してくれる便利な機械。それさえあればもう困ることはない。そんな話だった。
 絶対的に優れているもの。絶対的に劣っているもの。そんなものはこの世にはない。それはただ一つの観点から優劣をつけているだけのことであって神様の判定か何かのようにそれが絶対的に正しいなんていうことはない。どこまでも主観的であって客観的などと呼べた代物ではない。
 以上のことから、「わたしが自分自身のことをポンコツだと思った」のは事実だとしても軽率にこの言葉を使うべきではなかったのではないか。そんな風にも思ったりする。表現というのはなかな難しいものではある。が、書き手としての配慮が足りず、読者の皆様の中で不快な思いをされた方がおりましたらお詫びしたい。以上、追記でした。

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