わたしがニュースを見なくなったわけ

いろいろエッセイヨガ
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 もう午後の1時になる。わたしは朝取るのを忘れていた新聞を取りに行った。そして、ここしばらくニュースをほとんど知ろうとさえしていなかったということに気付く。久しぶりに新聞を開いて中の記事をちらちら眺めると、何かこのニュースに携わっている人たちが恐れに包まれていて、損しただの得しただの、こんなひどい出来事があっただの何だのと走り回っている様子が目の前に浮かんできた。わたしがあまりにも最近の世界で起こっているとされている出来事に無頓着なせいなのかどうなのか、ともかくみんな大変だなぁと思った。
 アシュタンガヨガを始めたり、またはインド哲学的なものにふれるにつれて、何かこう世界を積極的に変革してやろう、とか素晴らしい世界を作っていこう、なんていう気持ちがなくなってしまった。何もこれはネガティブなことではなくて、ある種の透き通った諦めと言ってもいいものだと思う。何かこうアクティブに変えてやろう、変えてやるぜ、みたいな脂ぎった欲望がわいてこないのだ。
 最近バガヴァッド・ギーターというインドが誇る聖典を読んでいたら、すごく腑に落ちるものがあった。それは因果応報とか自業自得といった考え方ともつながっていくもので、わたしたちはどうやらこの世界で起こっている出来事、そして、今の自分が誕生してから今日までのことしか見ていないらしいということへの気付きだった。この世で起こっていることの原因。それは科学的な思考のように、直近の出来事が原因としてあり、その結果、今の出来事が起こっているといったものではなくて、もっとスケールの大きな話で、原初というか永遠の昔から現在までわたし自身が行ってきたすべてのことが原因として作用しているという壮大な話なのだ。もしも生まれ変わりといったものを信じるのであれば、わたしが今、何回目の生涯を送っているのかは分からないものの、それでも永遠の昔から生まれては死に、生まれては死にを延々と繰り返してきたということになる。だから、今もしわたしだったり誰かが不幸なのであれば、それはここ最近の出来事だけではなくて、もっと深いところで前世の出来事が影響を及ぼしているということを意味する。そうなるとやる気が失われることは確実で、ただただ自分自身の平安を求めていくという方向性を取らざるをえない。地球が一体いつまで続いていくのかは分からないけれど、わたしという存在、つまり自分自身という永遠不変の本質的な存在。もっと言うならば魂のようなものは、いつまでもいつまでも続いていく。そして、輪廻から解き放たれなければ、いつまでもいつまでも、どこまでもどこまでも生まれ変わりを続ける。何回も、何回も。
 さらには人間がどうしてここまで不平等なのかという問いにも明解にこのインド的な思考は答えようとする。もし、貧しかったり、暴力的だったり、愛情のないような家庭に生まれたとすれば、それはその人自身の責任であって、きっと前世で良くないことを延々としてきたからなのだろう。だから、その報いを受けているのだ、と考える。これは身も蓋もないと言ってしまえば、身も蓋もない。すべては自業自得なのであって自分のやったことの報いを受けているだけのこと、という考え方。おそらくインドのカースト制度もそういった思想を背景にしているものなのだろう。生まれが悪いのは前世で悪い行いを積んできたから。だから、あなたは今、その報いを受けて粗末に扱われて貧しくある。こういう風に考えると、社会正義だの人間は平等だの人権だのといった考えは力を失う。そういった人間が最近編み出してきた思想なり権利なりといったものでは到底かなわないような、そんな深淵と言ってもいいような前世があり、永遠の昔から今に至るまでの出来事がある。
 何を迷信じみたことを言ってるんだ、とわたしのこの文章に吐き気がしている人もいることだろう。でも、何かこのインド的な、インド哲学的な考え方はその世界観において実にクリアーで透徹さえしているとわたしは思う。キリスト教では説明できずに来世に委ねましょう的な、世の終わりの最後の審判ですべては分かりますから待っていてください的な、そんなおあずけではっきりしないあり方とは一線を画しているのだ。
 世界を良くする。進歩させる。成長させる。それはそれで素晴らしいことで意義があり意味もあるものだと常識的には思う。でも、こうした深遠なインド的な考え方を通してこの世界だったり、今起きている出来事を眺め直してみると違うように見えてくることにもうあなたはお気付きのことだろうと思う。世界がいつまで続くのか、それは分からない。けれども、地球が消滅しても何らかの営みはいつまでもいつまでも永遠に続いていく。だとしたら、この自分が生きている間という80年から100年の間に世界に働きかけて世界を良くすることに、良くしていくことにどれだけの意味があるのか。こう言ってしまうとわたしは冷酷無比な人間なのかもしれない。でも、もっと醒めた見方で見るのであれば、この人生が終わっても解脱して悟らなければ、また生まれ変わって新しい肉体で命が始まって人生(もしかしたら人ではなくて虫に生まれ変わるかもしれないので虫生かもしれない)がスタートするのだ。この今取っているわたしの肉体での生涯は数十年からもって100年で終わってしまうけれど、おそらく凡人で悟れないわたしなどはあと何回も生まれ変わるのだ。おそらく多分。このこれからも延々と繰り返されていき、下手をしたらいつまでもいつまでも生まれ変わり続けるかもしれないわたしという存在。
 ここまでの話を読んでいただければ、いかにわたしたちが日頃どうでもいいことにかかずらわっているか、ということが分かってくるだろうと思う。今のわたしの目で見ると新聞に載っていることのほとんどがどうでもよくないけれどどうでもいいこと(どっちなんだ?)だったりする。たしかにそのいろいろな問題の当事者の方たちは苦労されたり苦しい思いをされているわけだから、こんなことを誰か作家でもジャーナリストでも、あるいは政治家ななりが発言すれば問題だろう。失礼であり問題の深刻さを何も分かっておらず無関心もいいところだと発言の撤回なり謝罪なりを求められるだろう。でも、正直今のわたしにはどうでもいいことのように見えてしまうのだ。その問題はその当事者なり関係者なりがやっていてくれればいいことで、何もこのわたしがそれに積極的にコミットして考えて、自分の人生の時間の多くを費やさなければならないということでもない。それよりはわたしは自らの心の平安を求めていきたい。自己中心的で身勝手だとか言われるかもしれないけれど、自分自身の内なる平安を求めていきたいんだ。「ダメだ」と誰かは言うかもしれない。恐い顔をした真面目な社会正義に燃えるおじさん、おばさんからは攻撃的な批判をされることだろう。社会を良くしていかなければダメだから、と。でも、わたしがどんなに本を読み知識を蓄えていっぱしの通のような感じになってもこの社会は、世界は大きく変革してくれなかった。変わってはくれなかった。失望している、のかもしれない。この世界というものに、社会というものに。こう言ってしまうのも何だけれど、社会を変えるとか世界を変えるなどというのは、わたしのような社会的弱者ではなくて、地位のある仕事をしていて力のある、金銭的、経済的にも余裕のある人がやってくれればいい。わたしにまでそれが問題だからと言って、わたしのなけなしのお金や時間や労力などを奪おうとしないでいただきたい。わたしにはわたしのやりたいことがあり、生きたい生き方があり、進んでいきたい方向性だったりがそれなりにはあるのだから。
 社会人のたしなみ。社会人に必要な教養。そういったものはあることはあるけれど、必ずしもそれに従うこともないと思う。従うことで社会や世間から高く評価されることを狙っていくのであれば外せない要素であることはたしかだ。でも、それがわたしには空しく見える。大量の札束も名誉ある肩書きもそんなもの空しい。そうではなくて、ただただ平安がほしい。静寂がほしい。そして、どこまでもどこまでも澄んで透き通っていたい。
 テレビや新聞のニュースがまるで別世界の出来事のように思えてならない最近のわたし。それだけ自分の軸のようなものがはっきりとしてきたということでもあるのだろう。もしかしたら本来はテレビのニュースや新聞なんていうものは必要のないもので、ただ自分の身の回りのことだけしっかりと分かっていればいいだけなのかもしれないとも思う。
 わたしにとって本当に大事なことって何なのだろう? 本当に必要なものって何なのだろう? それを純粋に見つめていく時、自分にとって必要のないものはおのずと取り除かれてシンプルにシンプルになっていく。そして、最後に残るもの。それが何なのか確かめていきたいと思う。



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