星のアシュタンガヨガ日記 第4回「すべてを良しとするということ」

星のアシュタンガヨガ日記
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 最近のわたしは朝3時頃に起きて、マイソールクラスがあったらヨガ教室まで出掛けてヨガをやり、それがなくても自宅で朝ヨガをやる、という感じの新生活を送っていた。ムーンデーと言われる新月と満月の日以外は休みなくフルにヨガをやりたいと決めたくらいでかなり熱中していた。
 しかし、どこか疲れてきた。やっぱり無理をしていたのだろうか。しているのだろうか。毎朝3時に起きて、それからしばらくしたら、お勤めとばかりに1時間とか1時間半くらいのヨガをやるというのは、やはりきついのだろうか。
 その朝のマイソールクラスであっても、自宅であっても、ヨガのしめとしてやるシャバアーサナ(屍のポーズ。仰向けになって寝るポーズ)の時には何とも言えない至福に包まれる。この瞬間、この瞬間のためにやっている。それくらいその時は無我の境地で静寂で、それはそれは心地いい。
 疲れてきた、というのは今日のマイソールクラスがうまくいかなかったということもあるのかもしれない。とにかく前のポーズをおさらいしていたのだけれど、その中でいい加減にやっていたポーズがあって、それを先生に指摘されて、また詳しく教えてもらうということになった。で、案の定、いい加減に覚えていい加減にやっていたわけだから、正しいやり方でちゃんとできない。先生と一緒にそのポーズを一緒にやったのだけれど、それでもさっぱり覚えられない。どうやらわたしはちゃんと頭で理解できないと覚えられないタイプのようなのだ。が、先生はそのわたしが覚えられないポーズを最初から最後まで通しで教えようとする。そのポーズ、AからDまであるわけなんだけれど、そんなにいっぺんにはとても覚えられない。で、結局覚えられずさっぱりダメで、30分とか40分くらいフリーズして時間を弄ばせていたような、そんなクラスだった。そんな固まっているわたしに先生は「動いてみないと覚えられないですよ」「固まっているだけではダメですよ」みたいなことを言う。けれど、もう出だしから覚えていないのだ。覚えようとはしているのだけれど、さっぱり頭の中に残らないし、残っていない。もちろん、適当に正しくないやり方で適当にポーズをすることなら簡単にできる。でも、それでは先生から教えてもらう意味がないし、その時間がただの徒労であり無駄になってしまう。
 きっと先生はわたしとは違って体を動かすことを小さな頃からやってきたのだろう。体操とかダンスとか、何かしらやっていたに違いない。けれど、わたしは本当に運動というものをやってこなかった。中学生の時は卓球部だったけれど、それだってメチャクチャ強いとかそういうわけではなかった。卓球の個人戦ではいつも地域の一番最初の大会で負けて県大会になんて行けなかったし、団体戦では何とかかろうじてレギュラーでダブルスをやっていたものの、特段、優れているわけでもなかった。まぁ、そこそこは打てますね程度と思ってもらえばいい。
 だから、卓球とかならまだしも、ダンスとか体操とか、もうそういったものになるとてんでダメだった。高校の時に入学すると男子が必ず覚えさせられる準備運動も兼ねた体操があるのだけれど、それだって誰よりも覚えるのに時間がかかった。だから、体を動かす脳の部分がまだわたしは育っていないままできっと未熟なのだろう。だから、きっと覚えられないのだと思う。
 AからDまであるそのヨガのポーズのAの段階で詳細な動きを全く思い出せなかったわたしは先生が見かねて声を掛けてくれるまで完全に固まってフリーズしていた。その時思ったのが高校の時のことで、何だかそのフリーズしていたたまれない状態になった時というのが高校時代のあの感覚に近かったのだ。高校時代の再来?、と思った。わたしは教室の椅子に座って授業を聞いている。けれど、さっぱり分からない。分からない。しかし、その場から立ち去って逃げてはいけない。とにかく全く分からないのだけれど、そこにいなければならない。何て生産性のない苦しいだけの無駄な時間なのだろう。そのままその教室にいても何も得ることはない。それだったら学校になんか行かないで家でマンガでも読んでいた方がよっぽどよろしい。それと同じように(少し違うかもしれないけれど)、わたしはそのヨガのポーズのAの出だしからその動きと共に息を吸うのか吐くのか分からない。そして、その次の動きも。こんな状況に置かれたら固まらずにいられるだろうか。もう出だしから右の耳から左の耳へ流れていくかのように、先生が何度も見せてくれた手本や、一緒にやってくれたその手本が、消えてしまっていて、どう動いたらいいのか分からないのだ。
 そんなわたしが固まっている時にも他の生徒さん(いや、練習生という表現の方が適切かも)たちはものすごく高度なヨガをやっている。わたしが今、吸うのか吐くのか、どう動くのか分からなくて立ち往生しているなんていうレベルとは全く違う、雲の上のようなレベルの練習をしている。その光景がさらにわたしが取り残されて置いてけぼりになっているかのような気持ちにさせる。
 言うならば、ダンスで出だしの最初のワンステップをどうするのか思い出せない、という状況と近いだろうか。もうそうなったらフリーズする以外の選択肢はない。それか開き直って適当にそれっぽく踊ってしまうか。
 そしてさらには先生が体を動かすことにおいては優秀なのか、わたしの苦悶に対して共感してくれなかったこともわたしをさらにネガティブな気持ちにさせた。好きで固まっているわけではないのに、「固まっているだけではダメです。動かないと」と言われてしまう。まぁ、適当にごまかしてそれっぽくやることはできますよ。それだったらいくらでもできる。でも、それだったら習いに来てる意味ないじゃん、と言いたくなってしまう。
 帰ってきてから急に力が抜けたように、ヨガへの情熱とか熱意が冷めてしまったかのように感じた。本当にこれでいいのだろうか。これをやっていていいのだろうか。まだ始まってから、クラスに通い始めて6回目だというのにこの意気地のなさは情けないものだけれど、正直そう思ったのだ。そして、わたしがどんなにヨガを熱心にやったとしても、それは所詮お遊びのような趣味のようなもので、誰も偉いとかすごいとか立派とか素晴らしいとか言ってくれるわけでもない、ということに気が付いた。誰か他の人からの賞賛を求めるのではなくて、自分自身が自分で選んだこの道を良しとしなければならない。さらには、「これが正解なんだ。自分が選んだこの道が正解なんだ」と思いたい。でなかったら最終的には人ウケするものを選ぶことになってしまう。みんながほめてくれる学歴。みんながほめてくれる仕事。みんながほめてくれるパートナー。つまりは、インスタ映えするような人生。いいねや賞賛を存分に浴びて浴びて浴びて、でも自分自身ではどこか違うように感じている、という不本意な選択。
 違う。そうではなくて誰もほめてくれなくても、いや、けなされたとしても認めてもらえなかったとしても、自分はこれでいいんだと思いたい。それがわたしにとってはアシュタンガヨガだったじゃないか。まだ始まったばかりなんだから、もうしばらくやってみようや。もう少し頑張ってみようよ。そんなもう一人のわたしの内なる声が聞こえる。思い出せば中学の卓球だって最初は玉つきから始まったじゃないか。ラケットでボールをつく。コツコツコツコツ、コツコツコツコツとひたすら低くボールをつき続ける。そして、上級生の多球練習の玉拾い。なかなか最初から卓球台で打つ、ということはさせてもらえないのだ。それを思えば、わたしなんてちゃんと今、ヨガのポーズを覚えていく段階だけれど、ヨガマットの上でヨガをやらせてもらっているわけだし、「ヨガをやらせてもらえているのに何が不満なんだ?」とも言える。
 最初から最後まですべてがうまくいく。そんなことだったら何も面白くはないだろう。何も練習をしなくても、少し練習しただけでも、ほとんどのポーズが楽々できてしまうのであれば、そこにはおそらく喜びはない。「ま、こんなもんだろ」で終わり。でも、できないポーズがあったり、覚えられなかったり、その課題を乗り越えるのが大変であればあっただけ、それを乗り越えた時の喜びは大きく強くなる。アシュタンガヨガの創始者のパタビジョイス先生だって師匠のもとで20年以上にわたるヨガの修行をしたというじゃないか。それと比べてみろ。星なんてまだ二週間かそこらじゃないか。そのたった二週間かそこらでちょっとでもつまずいて思い通りにいかなかっただけで、やめることを考え始めたり、これでいいのだろうかと思ってしまう。要するに軟弱なんだよ、弱いんだよ。忍耐できるかどうかとか、それ以前の段階なんだよ。
 マイソールクラスに通い始めて今日で6回目。およそ二週間。まだまだ、まだまだ始まったばかり。やめるのは、弱音を吐くのはまだまだ早い。まずは半年でも1年でもいいから続けてみて、それから考えた方がいいんじゃないか。
 何か元気が出てきた。まだ始めたばっかじゃないですか。まだまだこれからじゃないですか。これからだよ、面白くなっていくのはさ。
 山を登っていってその先にどんな景色が待っているのか? どんな風に登っていく中で自分自身が変わっていくのか? それはやってみなければ、それもちゃんと続けていかなければ分からない。始めて二週間でやめたら二週間の境地しか分からないし、もっと続けていった先の境地もそれをやってみないと分からない。アシュタンガヨガの先人というか、先輩たちはみんなアシュタンガヨガをやるとこういういいことがありましたよ、と文章で教えてくれる。でも、それはその人にとっての境地であり自己変容の過程でしかない。だから、もっと言ってしまえば、これから先、アシュタンガヨガを続けていってわたしに何が待っているのかということは分からない。それは続けていったことへのご褒美のようなものであって、おそらく先輩たちの言うような感じにはなっていくのだろうけれど、確かなことは何も言えない。仮にもしもほとんどいいものが得られなかったとしても、その過程はわたしの中でキラキラと良き思い出として残り続ける。そう、わたしの場合なら6年あまり続けた教会生活のように。
 そして、わたしがどんな道をこれから歩んだとしてもそれを正解だと思いたい。後からそれが不正解だったように思えても、その時はそれが正解だと思って選択したのだから、ということで正解としたい。でないと、一生、後悔の悔いだらけになってしまうから。あれで良かったんだ。その時はそれでいいと思ったんだから。正解だと思ってやったのだから。他人が見てどうかじゃない。自分にとってそれがどうかということが大切で重要なんだ。
 わたしはアシュタンガヨガをやることを選択した。その花がもしも咲かなかったとしても、それを選択したことは間違いではなかったと思いたい。まっすぐ前を見て、そして、自分が今まで歩んできた道をも振り返りながら「良し」と言いたいと思う。



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