星のアシュタンガヨガ日記 第3回「裸族との闘い」

星のアシュタンガヨガ日記
この記事は約5分で読めます。

 アシュタンガヨガを始めて毎朝3時頃に起きるようになった。3時というのはまだ夜中で、まだまだ朝ではない。でも、だいぶそれにも慣れてきて、新聞が配達される前から始まる早い時間からの一日を満喫している。
 そして、それから朝のモーニングルーティーンをやって、朝のヨガが始まる。その前にはもちろんシャワーも浴びて身体を清潔にしているから、まさに清々しい気持ちになっている。
 アシュタンガヨガは太陽礼拝から始まる。必ず太陽礼拝から。太陽礼拝が終わると、順番通りに決められたポーズを連続して取っていく。わたしはまだ数ポーズしかできないから、とりあえずそこまではやって早めに一通りのポーズが終わってしまう。そして、それからは自分自身、教室の先生から教わったポーズの中でもうろ覚えのようなところをおさらいしたり、また太陽礼拝が終わってすぐ次のウッティタ・トリコナアサナ(三角のポーズ)から教えてもらったところまでをやったりしてヨガをやっていく。そんな調子でやっているとあっという間に一時間くらいは経っている。そして、最後にはシャバアーサナ(屍のポーズ)をする。マットに仰向けに寝てしばしリラックスをする。その時の静寂というか、静かで落ち着いた心は、言葉では表現できないほどの心地良さでほとんど無の境地になっている。アシュタンガヨガがかなりしっかり体を動かすからなのか、その後の最後のシャバアーサナが最高に気持ちがいい。癒しを超えてスピリチュアルな領域にまで片足を突っ込んでいると言ってもいいような至福のひととき。その時にはもう他には何も要らないとさえ思う。
 が、そんな静かな境地とは真逆の状態にわたしは日中晒されてしまう。何かパソコンをやっていて、気が付くとアダルトコンテンツにアクセスしてしまっているのだ。そして、それを見ると、本当に心がかき乱されてくる。清浄とか静けさとか、そんな世界とは打って変わった世界が目の前に展開される。つまり、頭の中が裸の女性たち、裸族でいっぱいになってしまう。いかんとは思う。が、見始めると止まらなくなる。どこまでもどこまでも際限なく見てしまう。
 けれど、今日それらをしばらく見ていたら、何だかそれらが急につまらなく思えてきた。精神状態が悪化しているわけではないにしても、何だか冷めてきた。一言で言うなら、言ってしまうならアダルトコンテンツというものには成長がない。それを見ていても繰り広げられるのは、同じことの繰り返し。女性に着せる服を変えたり、シチュエーションを変えることによって変化を付けようとはしているのだけれど、結局やることはいつも一緒で、それがだんだんマンネリのように感じられてきたんだ。
 どんなにヨガで高い精神性を得たとしても、そのヨガ以外の時間で心を乱しているのであれば、ほとんど意味がないように思えてきた。まるでそれは体にいい食物を食べたり、健康的な活動をしたりした後で、不健康な食物や不健康な活動をたくさんすることと等しい。ヨガで心身ともに浄化されてきれいになった。けれど、その後にまた泥水を全身に浴びる。で、またヨガできれいにする。それでまたまた不健康な活動で泥水を浴びる。またヨガで……。ってそれじゃあ、いつまで経ってもきれいにはならないよ。汚れてはきれいにして、汚れてはきれいにしてを繰り返しているだけで、次のステージへとは進んでいけない。進歩がないんだ。同じことの繰り返しで。
 霊的な成長や魂を浄化していきたいと思うのであれば、やっぱりアダルトコンテンツというものは有害なのではないか。それは言うまでもなく分かっている。が、それにしてもいつまで経ってもわたしの前にはそういった壁が、しかも分厚く頑丈な壁がそびえ立っている。
 もうこうなったら女性というものを物質的なものと見なせばいいのだろうか。物質的なものというのは、タンパク質と炭水化物と脂質のかたまりと見なすということ。考えてみれば人間というものはすごく不思議だと思う。どうしてわたしは女性に欲情するのか、と考えていくとすごく不思議に思えてくる。どうして木や石ころや紙には性的欲求を覚えないのに、女性にここまで執着して、欲しいと思ってしまうのか。考えれば考えるほど不思議だ。わたしも女性も、人間もその他のありとあらゆるものも突き詰めていけば元素のかたまりでしかない。肉体というものは物質的なもので元素が結びついて出来上がっているものだという風に考えることができる。どうしてこの元素のかたまりにここまで恋い焦がれて求めてしまうのか。
 物質に心奪われ、執着して、それにしがみついてしまう。それこそが煩悩なのだと思う。それを断ち切る? 完全には無理だからまずは少しずつ捨てていく?  捨利?
 このわたしの肉体。そして、女性の肉体。すべては物質。言い換えればすべてはエネルギー。そうか、すべては海の水なんだ。その海の水が形を変えて波となり、姿を変えているのがこの世界であり、万物の姿なんだ。だから、これからはアダルトなものを見たくなったら、この海と波を思いだそう。と言いつつもこんな気休めのようなものが果たして効くのかどうかは分からない。情欲の炎を消すことはできないかもしれない。煩悩に打ち負かされてしまうのがオチということも十分考えられる。でも、わたしが求める方向は、方向性はアダルトコンテンツに心を奪われているような境地ではないはずだ。そうではなくて、それらから距離を置いて自分自身を浄化して清めている静かで穏やかな境地。アダルトコンテンツはわたしが求める方向性の妨げになっていて、言うまでもなく障害となってしまっている。だから、これをどうにかしない限り、平安の至福の境地はありえない。
 自分でこう書きつつも男にとって最大の難関だと思う。アシュタンガヨガの創始者のパタビジョイス先生もブラマチャリヤ(禁欲)が一番難しいと本に書いているくらいなのだからやっぱり難しいのだろう。でも、せっかくアシュタンガヨガを始めたんだ。違う意味での修行もしようではないか。己に打ち勝つんだ。
 すべては、この世の万物は元素、もっと言うならエネルギーが様々な形を取っているもの。そんな考えと共にやっていきたいと思う。まずは一週間。ファイト!! ってヨガ日記じゃなくてオナ禁とか禁欲日記だな、こりゃ。でも、これがわたしにとってのヨガ日記なのです。以上。



日本ブログ村のランキングに参加しています。
記事をいいなと思っていただけましたら、
下のバナーをポチっとクリックしてください。
クリックしていただけますと励みになります。
よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました