本当に分かるということ

ヨガ
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 早朝4時頃メモ帳に記す。

 言葉というものはおそろしいもので、実際に自分が自分の身体や経験を通して落とし込めていないことでさえも分かったような気がしてしまう。分かるということは、それも本当の意味で分かるということは、ただ単に概念やそれらのつながりを頭で了解するということではないはずだ。それもそのはずで「愛」を本当の意味で理解しようとするなら、頭で「愛」をこね上げるのではなくて実際に誰かを愛したり、愛される経験や体験をしなければならない。そうした体験がほとんどないのに、まるで愛についての知識を問うペーパーテストができさえすれば、いっぱしの「愛」についての理解者になれる、というのはどこか違うのではないかと思う。
 愛に限らず、価値や意味などについても同じで、自分が何かに強烈な価値や意味を肌身を持って感じたことがないのに、それらについてただ図式的に理解したことを語っても仕方がない。
 果ては一人の人の人生、つまりは生涯をたった一言で要約してしまうのも何か違うと思う。わたしの場合で言えば「何かパッとしない人生を送った人だった」という一言で要約されかねないけれど、そんなことはなくて山あり谷あり色々な感情のある人生で、毎日色々なことを考えて、日々の出来事に接していて、それが誰かから見てパッとしていないだけのように見えても、そんなつまらない一言でわたしの人生を「つまり」と要約してほしくはない。わたしの人生の何をその人は分かったと言うのか? 分かったつもりになっているだけではないのか!!
 分かるということ。それも本当に分かるということは実感をもってそれを体験や経験などと結び合わせて、さらにはしっかりと消化吸収して自分の血肉としていることだと思う。だからどこかで聞きかじっただけの自分自身に落とし込めていないことをどれだけたくさん知っていてもそれはただ単に物知りということにすぎなくて、その知識は生きた知識として自分のものにはできていない。わたしはアシュタンガヨガを始めてそんなことを思うようになった。
 跳び箱の知識。自転車の知識。それらに精通して跳び箱博士、自転車博士になっても実際にそれらをやったことがなければ、そんな知識があっても空しいだけなのではないか。知識もないよりはあった方が手助けにはなるものの、跳び箱を跳べるように、自転車に乗れるようになるには練習するしかないし、していくしかない。
 人生についてもそれと同じではないか。実際に人生を生きようとするのであれば、人生というものに実地で向き合い臨んでいかなければならない。人生というものは、人の生涯といういものはこういうものでああいうものでと頭で理解したところでそれはあまり意味をなさない。逃げないで人生というものに向き合って、そして人生というものを生きてこそ意味がある。
 今までのわたしは頭で了解できればもうすべて理解できているものだと誤解していた。でもそれは物事の表面上、上っ面をなでただけで本当の意味では分かっていないし、ものにもできていない。自分の中にそれを落とし込んで自分の血肉にできた時、それを実感として、それも深く実感して体をも通して理解した時、そのことを本当の意味で分かったとか理解したと初めて言えるのではないだろうか。



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