事実

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 人間はほとんど何も分かっていないんじゃないか。科学万能の時代だけれどもわたしはこう思う。
 分からないもの。それは世界であって、もっと小さなところまで降りていくと、わたし自身であったりする。今まではわたしというものはわたしであって、何も難しいことはなくて明解に分かっているつもりでいた。けれど、突き詰めていくと、というかどこまでも真面目に探求していくと分からない。分からないのだ。今までは何とも思っていなかったのに、急に急転直下するかのごとく分からなくなった。得体が知れなくて気味が悪いとさえも言える。
 今年のクリスマスは母の洗礼式があり、心穏やかにその式を迎えたいものだと思っていた。ところがどうやらそうはいかないようだ。と言いつつも何も信仰の危機が訪れてしまったとかそういうことではない。簡単に言うとまるで目の前にもやがかかったかのように、前方が見渡せなくなってしまったのだ。
 そのきっかけはヨガだった。ヨガの本を読んだのだ。ヨガの世界ってまたキリスト教とは異質ですよね。本当、異質でまったく違った世界が展開されていると言ってもいい。どこまで行っても交わらないというか、まるでそれは逆方向に進んでいる二本の直線みたいな感じでどこまで行っても交点が見いだせそうもない。
 ヨガの本、それは向井田みお『やさしく学ぶYOGA哲学ヨーガスートラ』というわたしにとっては一度ばかり読んだことがある既読の本であって、何の気なしに読み始めたのだ。気楽な感じと言っていい。そうしたら、何だかこの世の凄まじい秘密、秘儀を耳打ちされてしまったかのような感じさえして、2回目の今回はものすごい衝撃を受けているのだ。本ってその時、その時の自分の状況とか精神状態とかいろいろなものが絡み合って、同じ本でありながらもまったく違った印象を受けるものなのだ。だから、今回の衝撃は、インパクトは並大抵のものではない。母の洗礼式を穏やかな心で迎えたかったのに~、などとぼやいてももう以前の状態に戻ることはできない。ともかく、今自分が置かれている状況から進んでいくのみなのだ。
 ヨーガスートラを読みながら今回の読書で(まだ通読はしていなくて途中なのだけれど)考えてしまったのは、これは本当のことなのだろうか、ということだった。ヨーガスートラで展開される本当の自分、つまり真我は永遠で始まりのない始めから存在してきていて、これからもどこまでも存在していくという話は本当なのか。これはキリスト教の考え方と真っ向から対立する。キリスト教では人間の一生は一回きりで前世もなければ、永遠に自分が存在するとは考えない。この対立。どちらが本当なのだろうか。
 もし本当のわたしが永遠に存在するのだとしたら、前世があることになる。江戸時代にも、平安時代にも、弥生時代にも、縄文時代にも、そしてありとあらゆる昔の昔、永遠の昔にもわたしは何らかの命として生きていた。もしかしたらわたしは江戸時代にはモンシロチョウとして生きていた時期があったかもしれないし、その後はかたつむりに生まれ変わったのかもしれない。で、そんなこんなで肉体から肉体へと生まれ変わっていき、輪廻を繰り返していき、この令和の時代に人間の男性の体を取って生きている。としたらこの秘儀と言ってもいいような真実に気付くことはまさに悟りを得たかのような衝撃があってもいいことなのだ。そして、思う。疑う。この教えは本当なのだろうか、って。教えというよりもこの言説は事実なのだろうか、ってね。でもなぁ、このことを検証することはできない。今のわたしには前世の記憶なんてないし、あるとしてもそれは水面下に沈んでいて上の方には出てこない。検証不可能だけれど、これってすごく重要だし大事なことなんじゃないかって思うんだ。もしこれが本当だとしたら、そんなにあくせく毎日を生きなくてもいい。また来世があって、悟りを得なければ生まれ変わるんだからのんびりやっていればいいし、やっていけばいい。キリスト教的に「この世は一回きりでやり直しがきかないんだ」みたいな重圧からは当然だけれど解放される。わたしの人生はわたしが死んだらとりあえずそこで今回のは終わる。でも、それで終わりではなくて、輪廻によって生まれ変わって転生する。そして、本当のわたしはその様子を変わることなく永遠に観ている。100年後にも1000年後にも、いやいや永遠にその様子を観ている。終わりは悟らない限りなくてどこまでも生まれ変わりは続いていく。悟りを得るまで肉体は変われど人生はどこまでも続いていく。
 そういう意味ではキリスト教の死生観では生まれ変わりなんていうことはないから、今のわたしが天国でどのような姿を取るかはわからないけれど(天使のようになると聖書にはある)、今のわたしが天国で永遠に暮らすのだ。
 しかし、このキリスト教の話にしろ、インド的な輪廻の思想にしろ、これが本当なのか、とずばり直球で問うのならとたんに困ってしまうのが人間ではないだろうか。分からないよ。だってわたしはそうした秘儀について判定することなんかできないんだから。ただ今のわたしに分かっていること。それは今現実だと思っている毎日があって、世界はたしかにあるらしくて、自分もたしかにあるらしいということ。それくらいしかわたしには分からない。だから、輪廻とか天上の世界の話とか普通に暮らしているわたしには分からないし、絶対こうだって断言できないんだ。と書くと、最近書いた「聖書研究会で学んだこと」の記事の一番最近のやつと同じことの繰り返しになってしまうけれど、同じ人が書いているのだから繰り返しになってしまっても仕方がないなどと言い逃れを始めるわたしなのだ。
 となれば、不確かなことを主張する宗教など不要であって、ひたすらカネ、物を拝んでいればいいだけなのかな? が、宗教の真骨頂は道徳的で良心的な人間を量産するところにあると思うんだ。もちろん、宗教をやっている人間がみんな平和を志向しているかと言えば、そうとは言い切れない。でも、宗教はわたしたちにどう生きるべきかということを教えてくれる。それを全部捨てて、カネ、物だけを第一にして拝んでいたら人間荒んでくるし、私利私欲しかない人間ばっかりになってしまってとかくみんな不幸になってしまうだろうと思う。
 それにたとえ不確かな主張をしていたとしても、その考えによって人々が幸せになっているならそれは無意義ではない。もしかしたらだけれど、その教えが実際に死を迎えた時に真っ赤な嘘だと分かったとしても、その嘘を信じたがゆえに現世を幸せに生きることができたのであれば、その嘘も意味があったのではないかという気がするのだ。もちろん、中には「言っていたことと違うじゃないか!」って死んでから怒り出す人もいるだろう。でも、少なくともその人だってその嘘によって生きる希望や目的や意味を与えられて、生き生きと現世を生きることができていたのだ。と言いつつも死後に自分の信じていた宗教が嘘だと分かるって衝撃的だとは思う。となれば、死後の宗教の苦情相談係に相談するしかないのかもな、となかば冗談も交えながら考えてみたりもする。

 星さんは神様を信じていた。毎週の礼拝にもほぼ欠かさず出席していた。真面目なクリスチャンで熱心な人だった。しかし、生涯を終えてみたら、神様はどこにもいなかった。天国もなかった。ただあったのは無だけであって何もなかった。星さんは無になりましたとさ。チーン。

 星さんは神様を信じていた。毎週の礼拝にもほぼ欠かさず出席していた。真面目なクリスチャンで熱心な人だった。しかし、生涯を終えてみたら、神様はどこにもいなかった。天国もなかった。星さんは悟りを得られなかったのでまた生まれ変わった。今度はモンシロチョウとしてこの世に生を受けた。幼虫としてキャベツの葉っぱを食べていたら、不意に鳥に襲われて食べられてしまった。星さんは悟りを得られなかったのでまた生まれ変わった。今度はかたつむりとして生涯を送るらしい。3年くらい経った頃だろうか。宿敵のマイマイカブリに食べられてしまった。星さんは悟りを得られなかったのでまた生まれ変わった。今度は人間の姿を取って女性に生まれ変わった。生まれた場所はケニアで名前はマリアという……(つづく)。今日も星さんは生まれ変わって人生を送っていましたとさ。

 今二つの死生観をあげたけれども、どちらが本当なのか確認することはわたしにはできない。でも、とりあえずそうなったらそうなったでそれに巻かれてやっていくより他に道はない。無だったら無だったで虚無になるしかないし、生まれ変わってしまったのだったらまたその生をそれなりに生き抜いていくしかないのだ。やれるようにやっていくしかない。これはわたしにどうこうできることじゃないからね。
 こうした数ある死生観の中でわたしはキリスト教を選び取っている。そして、それを信じている。信仰ってどうやら自己責任らしいね。最後にはその責任が自分のもとに返ってくるんだ。あなたはそれを信じたくて信じたんだからしっかりと責任を取りなさい、ってね。後から不平不満とか苦情を言わないでね、という話なのだ。
 何が事実か。何が真理か。キリスト教ではイエスさまの教えが真実で真理だと言う。ヨガ哲学とかインドの思想においてはその教えが真理だと言う。どちらが事実なのか。本当なのか。真理なのか。それは究極的には誰にも分からないのかもしれない、と身も蓋もなくなるけど言わざるをえない。だって証明できないし、実証できないし、それを確認する方法だってないんだからね。もちろん聖書にこう書いてあるからとかヴェーダ聖典にこう書いてあるからとかそういったものを根拠として持ち出すことはできる。でも、その絶対に正しいものが、正しいと声高に叫ぶものが複数あるのだとしたらどれを信じたらいい? この場合、聖書とヴェーダのどちらかが間違っているか、あるいは両方間違っているか、どちらかだろうとしか考えられないよね。も、もしや両方正しい? 論理的にはありえない帰結だけれど、ある人は聖書の通りに死後なって、また別のある人はヴェーダに書いてある通りになる、とか? いやいや、ちゃんと統一してくださいよ、って言いたくなる。同じ人間、人類なんだからどっちかで統一してくださいよ、なんてね。
 そういうわけで、今もわたしには分からないことがあり、それらはヴェールで覆われているのだ。それが終末に取り除かれる? って終末が来たらですけどね。「あなた本当にクリスチャンですか?」って。クリスチャンであろうとなかろうと分からないものは分からないのです。それを限界のある人間として素直に認めて受け入れる。そんな謙虚さを見失いたくないなって心の底から思う。何が事実か? この世界はとても混沌としている。分からないことが山のようにあって、むしろ分かっていることの方がわずか。だから、「それって事実?」と聞かれて「わたしは信じているんです」としか答えられない歯がゆさがある。歯がゆい。が、分からんもんは分からん。
 逆に分からないことが恵みなのかもな。分からないという神様からの恵みをかみしめてしっかりと味わっていきたいと思う星なのでありました。ここまで長文読んでくださったことに感謝、感謝!!

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