お母さん、受洗おめでとう。

キリスト教エッセイ
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 長い一日が終わろうとしている。今日は12月25日の日曜日。教会でクリスマス礼拝が行われた。今日、この日に母は洗礼を受ける。
「おめでとう、お母さん」。となるためにはわたしと母の二人が大きな病気や怪我などをすることなく礼拝に出席していなければならない。このことにわたしと母がどれだけ神経を使ったことか説明するまでもないくらい、それはそれは気を使った。どちらかがコロナとかインフルエンザに感染してしまったらどうしよう。そうなったら母の洗礼式は後日に延期。そんな最悪の事態に怯えながら、ひたすら体調を保って崩さないことを第一に特にこの一週間、二週間あまりはすごく気を使っていたのだった。
 で、今日が終わろうとしている。とても濃い一日でとても2、3000文字程度では表しきれないくらいの感動があり、いろいろな出来事があった。
 今日、精神保健福祉士のWさんがはるばる駆けつけてくれた。申し訳ないくらい嬉しかった。って少し変な表現だけれど、この表現が一番わたしにはしっくりくる。申し訳ないくらい嬉しかったのだ。って、変? まぁ、日本語が崩れているとか、変なら変でいいだろう。そこが注目すべきところではないのだから、それは流すとして、Wさんと対面で会うのはもう何年ぶりだろう? 2年ぶり? 3年ぶり? ともかくしばしの再会にわたしのテンションは上がるのだった。それはWさんも同様だったに違いない。Wさんも嬉しそうだった。「ちょっとふっくらしました?」と失礼のないようにたずねたわたしにWさんは「大地さんはやせたようですけど」と返す。それから若返ったみたいなことも言ってくれた。ともかく、Wさんと会話をしていると特段変わったことは言っていないのに心地いい。なぜだろう。それはわたしという存在を受け入れてくれて好意的に尊重してくれているからではないかなって思う。話をしていて心地いい人。そして、目が澄んでいてきれいな人。生まれつきのルックスもあるとは思うけれど、そういうことではなくて、何というか目が淀んでいなくて透き通っている。Wさんはそんな人なのだ。全身にいい空気を帯びていて、いつもさわやかないい空気を巡らしてくれる。わたしにとってWさんはまるで清涼剤か何かのような、そんな人。
 と、Wさんについての描写が長くなった。というわけでわたしの洗礼式以来4年ぶりにわたしの教会へやってきたWさんと一緒に礼拝を行うことになったのだ。今日はいつもとは違う。わたしの右隣にはあのWさんがいる。何だか嬉しい。別にわたしがWさんに恋愛感情を持っているとかそういうのではない。自分が大切な人と一緒に同じ礼拝を守れるのってすごく幸せなことなのだと言いたい。安心感。そして、Wさんが隣にいるだけで何だかとても心が朗らかになってくる。
 母は洗礼を受けるということで一番前の列の席に座るよう牧師から言われたので一番前。わたしとWさんは前から3か4列目あたりに座っていた。
 今日の教会は空気がとても華やいでいた。お祭り騒ぎのどんちゃん騒ぎなどではなくて、みんな受洗する人がいることが嬉しくて仕方がないのだ。祝賀ムードと言っていい。その空気が教会を満たしている。
 10時。礼拝が始まる。いつもとは違う空気が流れている今日の礼拝。クリスマスということで出席者の数も多くて、とても厳か。人数が多いってすごく説得力があるな。それだけでキリストにつながる大きな群れって感じがする。
 賛美歌を歌う。何も特別な曲を歌っているわけではない。それなのに、何だかうるっと泣けてくる。涙があふれて泣きそうになる。泣きたかったら泣けばいいのに男が泣くのはどうたらこうたらと人目を気にするわたしは涙をこらえる。何とかこらえる。賛美歌をところどころ続けて歌うことができない。全部歌ったらもちろん泣いてしまうから。だから、泣きそうになると歌うのをやめて、で、おさまるとまたそこから歌う、みたいなことをしていた。賛美歌を歌っていると、母と過ごした、それも苦しかった日々のこととか、ここまでの出来事がぼんやりとだけれど思い出されてくる。それが涙を誘うのだろうか。おそらくそうだろうとは思うのだけれど、ともかく、うるうる、うるうる来て仕方がなかった。
 そんなこんなでうるうるしてはこらえて、で、またうるうるしてはこらえてみたいなことをしていたわたし。礼拝はどんどん進んでいき、説教も終わり、いよいよ洗礼式。ついに、つ、つ、つ、ついに夢にまで見た母の洗礼式。母の受洗。今回の受洗者は母一人ではないので受洗者たちが前の方に呼ばれる。いよいよ、いよいよ洗礼式。
 それはまるで運動会や学芸会のようだった。と書くと洗礼をそういったものと同じにするなとお叱りを受けるかもしれない。でも、わたしが言いたいのは母のこれまでを見てきたわたしにとっては運動会や学芸会のような感動があったのだ。母はわたしの母であり、わたしが親であるわけではない。けれど、親が息子や娘の成長を見届けたかのような、そんな感動が今回の洗礼式にはあったのだ。まるでわたしが母の親でそのまるで子どものような母の受洗をあたたかい大きな優しい眼差しで見守っている。そんな感じがしたのだ。母が頼りないとか、まるで子どもみたいな人だと言いたいわけではない。そうではなくて、何というか大事な大事な成長アルバムの一葉となる瞬間に立ち会えている、そんな満足感がわたしにはあったのだ。だから、感動して涙が止まらないといった風にはならなくて「お母さん、良かったね」ってほのぼのとあたたかい気持ちがわき起こってくるような、と言ったらいいだろうか。あたたかなじんわりとした、まるでわたしが親で娘の成長を見ているような。そして、この場には神様が舞い降りてこられていて、牧師がすくった水と共に霊的な力をしっかりと、鳩の姿は見えなかったけれども母ならびに他の受洗者に与えてくださっている。空気が、空気がその時はあたたかくなっていて、わたしたちを包み込んでくれている。あったかい、あったかい神様の大きなみ手の中でわたしたちは洗礼式を行っている。そんな、神様の包容力、それも尋常ではないほどやわらかくてふんわりとしたあたたかい力に一同が包まれているようで、わたしは心穏やかに母たちが受洗するのを静かに見守っていたのだった。それはとても幸せな時間だった。幸せでかけがえのない時間だった。
 そして、洗礼式が無事に終わった。何事もなく無事に終わったことに本当に達成感と安堵を感じたわたしなのだった。
 で、聖餐式。初めての聖餐に与る母。母ももうこれで立派なクリスチャン。キリスト教徒。この時は嬉しい感情もあったのだけれど、それ以上にあぁ母も仲間に加わったんだという驚きの方が大きかった。良かったね、お母さん。これからは一緒に聖餐に与ることができるよ。わたしも受洗したその日の聖餐
式が一番印象的で一番嬉しかったな。きっと母もものすごく最初の聖餐式から衝撃を受けたに違いない。この自分が聖餐に与っているんだっていう驚きがね。解禁されたっていう感じがね。
 今日の主役は母を含めた受洗者の人。というわけで、記念品のプレゼントに写真撮影にとてんやわんやの大忙し。でも、この忙しさ、嬉しそうだったな。幸せの忙しさだよ。
 簡単に祝会も行われた。そこでちゃんとみんなの前できちんと挨拶ができた母。ちゃんとできたじゃん、ってまたわたしの視線が親からの目線みたいになってる(笑)。娘がしっかりと自己紹介とか挨拶ができてほのぼのと成長を見守っている的なね。これでもう立派な教会員で仲間になったんだね。
 祝会も終わり、そろそろお開き的な空気が流れ始めたんだけれど、わたしはOさんに声をかけた。このブログにも時々登場するOさんは90近い女性でいわばおばあさんなんだけど、この方が母をここまで導いてくださったと言っても過言ではないんだ。「母が受洗にまで至ったのもOさんのおかげです。ありがとうございました」と感謝の言葉を伝えたらOさんは何だかもう泣きそうなんだ。で、「わたしは何もしていません」と謙遜されるOさん。「すべては神様のおかげです」と言われるOさん。たしかにすべては神様の業であって、すべては神様のおかげなのかもしれない。けれど、まるでOさんは神様の使いか何かのように自分を通して母に信仰で一番大切なことを伝えて、しっかりと教えてくださった。だから、母にとっては牧師以上に、いや牧師などと言うのもどうかと言うくらいOさんのことを母は慕っていて、いつも礼拝が終わると決まってまっすぐに彼女のもとへと行き話をするのだ。Oさんは母にとって実の母親以上の存在であって(そんなもんじゃない!!)慕うのはもちろん人として本当に尊敬して愛していると言っていい。言い換えるなら母の人生にもっとも影響を与えた人物。それがOさん。大切な大切な人。Oさんにとっても母はまるで娘のような存在でそれはそれは愛している。そんなまるで娘のようなわたしの母が受洗。嬉しくないわけがない。嬉しくて嬉しくて仕方がないのだ。Oさんは言う。「嬉しくて嬉しくて涙が出てくるんですよ」と。この老女にここまで幸せを与えているキリスト教。たとえ、キリスト教が真実でなかったとしても、この教えが彼女をここまで幸せにしている。それも嬉し涙を流させるほどの幸福をこの宗教は与えている。だったら嘘でもいいんじゃないか。嘘だったとしてもこれは素晴らしい嘘なんじゃないか。そんなことを昨日書いた記事のことも思い出しながらわたしは感慨にふけっていたのだった。そして、Oさんの流れ落ちそうなうれし涙がわたしにも伝染してきて、わたしもうるうるしてくる。共同幻想? 嘘? 宗教はアヘンだ? いいじゃないの。これだけ人を幸せにしていて、幸せにできているんだからさ。
 そして、教会を後にしたわたしたち親子とWさんは彼女の車でお昼を食べに出掛けましたとさ。この会食、本当に楽しかったな。この会食の模様を書くと長くなってしまうから割愛させてもらうけれど、久しぶりに会ったWさんといろいろな話をした。どんな話をしたかはあんまり覚えていないんだけど(ってオイオイ)、それはそれは楽しい会食で楽しいお話だった。と、もう午後の2時。お店を後にしたのだった。
 Wさんはわたしのブログを週1くらいでまとめて読んでくださっているらしい。お忙しいのに有り難い。Wさんは自分のことを支援者ではなく伴走者だとわたしに以前力説したことがあった。その意味が今回、ひしひしと感じられた。その人に寄り添うということ。それは上から目線で命令をしてあれをしろ、これをしろと言うことではない。そうではなくて、まるでキリスト教の精神をWさんは熟知しているかのように、苦しい時にはその苦しさを共に苦しみ、何もない時には何もないねと一緒にいて、また喜んだり嬉しい時には一緒にその喜びだったり嬉しさを共有する。その分かち合いの心というか精神。そのあり方をWさんは体現されている方なのだ。で、今日Wさんはわたしにこう言った。「大地さん、わたしが少しでも偉そうになっていたら偉そうになっていると言ってくださいね」と。このエピソードはWさんのお人柄をよく表していると思うんだな。謙虚であるということは難しい。けれど、Wさんはきっとレジェンド(伝説。その分野のすごい人)になろうとしないことによってレジェンドになるんじゃないか。そんな風にさえ思えてくる。偉くなろうとしないことによって偉くなる。そんな予感がするな。と言いつつも偉くなる気が微塵もないWさんだけにやっぱり偉くならないかもしれないけれど(笑)、彼女の人生のキラキラはさらに輝きを増していくことだろう。
 母の受洗。そして、Wさんとの数年ぶりの再会と楽しい語らい。今日は濃い一日だった。教会へ出掛けてから6時間くらい活動したわけで今日は疲れた。でも、わたしがそれだけ活動できたのもひとえに元気になってきている証拠。実にありがたい。神様に感謝しなきゃな。
 今日の記念として、お祝いとして母に十字架のペンダントをプレゼントした。値段は秘密だけれど安くはなかった。それを母はとても喜んでくれた。その喜んでくれたのがすごくわたしは嬉しかったな。もう母はなんちゃってクリスチャンではなくて正真正銘のクリスチャンだ。だから、十字架のペンダントをガチでするわけだ。とってもいいことだと思う。イエスさま、神様と共にこの人生を歩んでまいります。その決意表明が洗礼式。だから、母にはこのペンダントの精神を生きていってほしい。
 そして、母が90くらいになった時に教会へとやってきた「どうしたらいいでしょう?」と尋ねてくる不安そうな60くらいの初老の女性に「神様に感謝して委ねることよ」と答えてあげてほしい。それはまさにOさんが母に初めて会って話をした時のやり取りそのもの。そうしてお母さん、今度はあなたがOさんになるのです。Oさんから溢れるばかりに注いでもらった恵みを今度は迷える昔のあなたのような人に注いであげるのです。もちろん、Oさんとまったく同じようにはできないと思う。でも、お母さんだったらそれができるとわたしは思うんだ。そして迷える魂が神様のもとへと導かれる手助けをしてほしい。そうしてOさんの崇高な想いや精神は受け継がれていく。
 20年後にどうなっているかは誰にも分からない。でも、その時にもお互い神様への信仰を持ち続けていられたらいいですね。そして、20年前のお母さんの洗礼式、ならびに24年前のわたしの受洗のことをおだやかに思い出しながら話ができたら最高ですね。もしかしたらその頃には信仰に絶望して脱落しているのかもしれません。でも、心のどこかに1ミリでも神様への想いが残っていたら、それだけでもいいような気がするのです。
 と手紙みたいになってきたけれど、いつか今日の素晴らしい日を思い出す時が来る。その時も笑って幸せに生きることができていたら、それこそ神様のおかげなのだと思う。
 お母さん、受洗おめでとう。これからもぼちぼち信仰生活ならびに教会生活を歩んでまいりましょう。ぼちぼち、ぼちぼちと気取らず無理をせずに、ね。

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