まわりに流されそうになって自分のやっていることの方向性をあらためて問う

いろいろエッセイヨガ
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 今日は日曜日。教会へと向かう母を見送って、わたしはテレビを見ていた。アニメのワンピースに、ワイドショーと柄にもなく立て続けに見てしまったわたし。あたまがだんだん回らなくなってきて、ぼーっとしてきて思考停止になり始めてきたから見るのをやめた。
 やっぱり思うのだけれど、この情報化社会において自分自身、軸を持っていないと流されてしまうなぁって思う。人生というか、ライフスタイルが多様化していて、全部受け入れていたらグチャグチャになって収拾がつかなくなってしまう。
 で、考えた。また原点に戻ってわたしには何が必要か、って。どこを目指して今歩いていて、どうなりたいと思っているのか。自らに問い始める。自分自身と静かに対話をしていたらこうなりたいっていうのが浮かんできた。思い出したと言ってもいい。わたしは平安を目指していたんだった。つい周りの流れとか、いろいろな刺激に翻弄されてしまってそのことが見えなくなってしまっていたけれど、本丸の一番の大本命は平安な境地になることだったのだ。
 世間、社会、この世界はひたすらわたしに提案をしてモノを買わせようとする。それはモノに限らずサービスだったりもするのだけれど、とにかく消費させようとする。で、気が付くとその気になってしまっていて自分で同意してそれを買ったとは言え、冷静に自分にとって必要かって考え直すとあんまり必要でないなってものを買ってしまっているんだ。
 本当に必要なものって冷静に見つめ直してみるとあんまり多くない。ほとんどがあるといいもので、どうしても必要というわけではない。
 平安を求めていくのであれば、ヨガと瞑想を生活の中心にして心穏やかに過ごすことを考えた方がいい。読む本もヨガや瞑想の本を中心に据えてその方向を目指していく。
 自分自身と今回向き合ってみたら、別に何かで成功したり、有名になったり、極めなくてもいいかなって思った。何かに特化してそれに優れているのはいいことだけれど、別に自分にとってあまり必要でないことに特化してもねぇ。それよりは、自分自身の平安を求めていきたい。心穏やかな静寂の寂滅の境地を。だから、人からすごいと思われたり、尊敬されたり、感心されたりしなくてもいい。ただ己の平安を求めていくのみ。それがヨガだったり瞑想だったりといった手段によってそれへと近付いていく。
 まあ、その方向性でやっていったら心も落ち着いてきて不調に陥ることも少なくなってくることでありましょう。だから、何も心配なしなのだ。食事もヨガ的な平安食といっても言いような、そんな新鮮な野菜、果物、木の実、穀物などをメインとしたサットヴァ的なもの(サットヴァとは心穏やかな性質などのことをいう)を摂るようにしていけばいい。サプリを大量に摂ってというメガビタミン療法の本を買いもしたけれど、それは保留して今はとりあえずヨガ的な食事にしていけたらと思う。
 気持ちを新たに、誰かにほめられようなんて思わないで(わたしってついついウケ狙い、尊敬されることを狙ってしまうんだな)ただただ自分の求めるところに従ってやっていきたい。そして、やっていきながら常に「これでいいの? 今やっていることは目指している方向へちゃんと向かっている?」と確認するようにしていけたらと思う。やりながら、日々歩みながら必要があれば修正しつつ歩いていく。それでいいんじゃないかって思う。目的を見失うと細い道というか、わき道へと入っていってしまって方向が分からなくなる。少なくとも今回、自分自身の目指す方向性がはっきりとした。だから、まぁその方向性でやっていきたいと思うのです。以上、赴くままに書いてみました。いじょぉぉ。

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