どうもー、星です。みなさんお元気に過ごされていますでしょうか? え? 調子が悪いって? それはそれは。かく言うわたしも今日調子が悪かったのだ。悪かった、と過去形なのは持ち直したからで、ありがたや、ありがたやなのです。
調子が悪くなると不機嫌になり、そっけなくなる。毎度毎度のことでありますが、そのことを母にお詫びしたのであります。そうしたら「調子が悪いと不機嫌になるのは当たり前のことだから」と何事もなかったかのように水に流してくれたではありませんか。あぁ、何てやさしい母。人の痛みのわかるできた人。
はて、今日はどうして調子が悪くなったのでありましょう?
まず、起きたのが遅かった。6時46分起床。本当は6時前に起きたかったのだけれど起きられず、二度寝をしてその時には6時半を過ぎていたのだ。これがまず一点。
そして、次が朝食にご飯を食べ過ぎた。いわゆる、めしを食べ過ぎたようなのです。この食べ過ぎによってカパというアーユルヴェーダで言うところのエネルギーが増えすぎて一気にだるくなってしまったよう、なのです。
だるくなってやる気ゼロとなったわたしはそのままベッドへGO。不調で寝るなんて一体いつぶりなんでありましょう。それから起きて少しはましになったものの、それでもだるかった。
わたしが不調になると心に余裕がなくなる。特に今回のだるさマックスな不調は今までのわたしにとっての典型的なやつとは違って(いつもは神経過敏になるやつがメインですからね)、身体的ならびに精神的に倦怠感全開といった感じでそれはそれはだるい。そして、そこへお向かいの家が工事中。もうこうなったら不調モードへ突入でありましょう。
が、そこからがわたしの偉かったところ。何と星はそこからさらに寝るのではなくて運動をしようと決めたのだ。高名な精神医学の先生がご本で言われるには、不調、その中でもうつや倦怠感には運動が効くそうなのです。その言葉を信じて実行!! わたしは縄跳びのひもを持って近所の公園へと駆け込んだのです。そして、跳んだ。跳びましたよ。縄跳びだけに跳びましたよ。だいたい80回くらいは跳びましたでおじゃろうか。あまりにもきつくてその場にしゃがみ込む(って走ったりとかしてなくて運動といったらヨガくらいしかしていないから)。その跳んでいる時、縄を一心になって跳んでいる時、わたしの中で確実に変化があった。あの重い感じがなくなっているのだ。消えている、まるでマジックか何かのように消えている。重い感じ、倦怠感、だるさが。この縄跳びって精神科のお薬と同じか、それ以上に効いてますよ。しかも、副作用は足が重くなることと、心地良い疲れくらいで。
それから足が重くなっていて結構疲れたのだけれど、そこからさらにお散歩へと出かけたのだ。田んぼと畑のある自然あふれる道をひたすら歩く。だいたい少なくとも30分は歩いただろうか。そうしたら今日は気温が高めなのかモンシロチョウがたくさん跳んでいて、って漢字変換を意図的に狙ってミス!? 飛んでいて忙しそうに飛び回っている。花に止まって蜜を吸っている者。少し休憩している者。そして、大方のモンシロチョウはほとんど休まないで跳び続けている。縄跳びを。って違いますよ。飛び続けていたんだ。
そうしたら焦らなくていい、って思ったんだ。わたしは積み重なった本を前にしてそれらから無言のプレッシャーを感じてしまっていたんだけれど、読みたくなったら読むでいいじゃん、って思い直すことができた。モンシロチョウを見てご覧。彼らは何にも読書なんてしてはおりませんよ。一行だって読んではおりませんよ。でもね、立派にモンシロチョウをやっていてその務めを果たしているではありませんか。わたしの務めも同じように星大地としてその人生を生き抜いて全うすること。だから、読書が一向にはかどらないとか、読書をやる気がしないとか、そういったことは一番重要な問題ではなくて、とりあえず生きていること。それが一番大事なことで重要なこと。質の問題はその次なんだよ。もちろん人間は欲が出てきてしまうからどれだけ人生の質を上げるかということにシャカリキになってしまうのだけれど、それが最重要事項ではないんだ。わたしがわたしの命を生ききること。これが一番大事で、それ意外のものはいわばオプションとかサブみたいなものなんだ。だから、読書だって勉強だってやりたくなったらやるくらいでいい。何も仕事じゃないんだ。仕事ではないんだから気の向いた時に気の向いただけやればいい。スランプだったらしばらく休んでやりたくなるのを待つくらいでいいじゃないの。何が何でもこれだけ最低限やらなければ人生が終わってしまって破滅するなんてことはないし、むしろやりたい気持ちが起こってもいないのに無理してやる方が負担がかかってしまって良くないよ。
どうもわたしはプレッシャーがかかると苦しくなってしまうタイプのようでして、やらなければならないと自分で何かを決めるとそれが重荷になってつぶれてしまうようなのだ。だから、最初から大きな目標を立てて、というのは苦手なんだ。それよりは気ままに気楽に、そして気軽にあっちにふらふら、こっちにふらふらしている方が性に合っているというか。だから、なかなか大きな目標が達成できないんだけどね。
だからなのだろうか。昨日、平安を目指してやっていきたいみたいなことを書いたものの、その目標に縛られているような感じが苦しかったのか、ヨガの本も瞑想の本もあれから1ページも読んでいないし、何か気が重くなってしまって取りかかれず仕舞いなんだ。もしかしなくても大きな目標を立てて計画倒れするタイプなんでありましょうか? 計画倒れの星、とでも呼んでくれ。
そんな調子でやっていたらわたしの人生は雑草だらけになるんだろうなって思う。あっちもかじって、こっちもかじって、いや、やっぱりそっちも、ってな具合にかじりまくった結果何もものになってね~、みたいな感じに。でもさ、何かをものにしたとか、ものにできた人って少なくないですか? というか、圧倒的に少ないでしょう、そういう人って。そもそも何か一つのものをものにするのって本当に大変なんだ。お料理を例にしてもお料理をものにしたって、どのレベルを言うわけ? プロ級のことを言ってるの? あるいは普通のお袋の味が出せるレベルのことを言っているの? お料理を極めてものにした人なんて日本の全人口の1%もいないでしょう。大抵は悪く言えば中途半端でものにはなっていない。ある程度できるようにはなっていても極める、つまりものにするところまでは到達できていないのだ。だから、安心していい。みんな大したことないんだからさ。平凡で普通なんだからさ。むしろ、専門家とか極めた人の方が圧倒的に少数なんだよ。そういうわけで、みんな自分の中にたくさんの雑草(なんて言うと失礼だよ。言葉を慎めいっ、星)を茂らせていてどれもこれも一流になってなんかいない。みんな中途半端でいまひとつでどうもパッとしない。でもね、料理を楽しんでそれを味わうのに世界一のシェフになる必要なんてないの。ランニングを楽しむのにオリンピックの出場選手やメダリストになる必要もないように、何にしたって別に極めなくていい。どうしても自分の人生において極めずにはいられない。極めなくては人生やり残したことがあるように感じてしまう、ということならやるのは自由。でも、万人が目指す道でもない。ごく少数の意識の高い人だけがやればいいだけの話。だからね、まぁ、どれもこれも中途半端な雑草だらけなままでわたしの人生終わるんだろうけれど、それもいいかな、と。後世に名を残すなんて無理だし、それができたところであんまり意味がないと思うからね。
何か昨日と言ってることが全然違いますよ、星殿。まぁ、そうかっかしなさんな。人間は川の流れみたいなものだから常に流れて変わっているようなものなの。わたしは銅像じゃないから、いつも絶えず変わっていくし同じ形をとどめてはいない。信念とかぶれない軸みたいなものがないんじゃないですか? まぁ、そう言ってしまえばそうなる。でも、軸はあると思うよ。ゆるやかに変わってはいるけれど、大まかな軸のようなものはある。でなかったから昨日と今日、そして明後日でまるで3人の人が書いているような文章を書くことになる。こう言ってしまうのも何だけれど、わたしの軸だって変わっていくし、変わっていっていいと思うんだ。もちろん急激に変わると変化が大きすぎてダメージが来てしまうけれど、ゆるやかに変わっていく分にはいいと思うし、その方がむしろ自然だ。絶対こうでなければならないとかいう信念も時には必要だけれど、信念だって川の流れなのだから変わっていく。わたしは今、完全菜食主義のヴィーガンなのだけれど、これだって今は絶対譲れないと思っているものの、ときの流れととともに変わっていくのかもしれないし、それは何とも言えない。とりあえず、今の段階としてはわたしはヴィーガンの立場を採っているんです、でいいと思うんだ。ヴィーガンが正しいし、非の打ち所のない思想であり実践だということは今のわたしの中では揺るがない。でも、これから先も同じように考えるかどうか、というのは自分でも分からないし保証できないんだ。
もう3800文字か。そろそろ終わることにしよう。あんまりぐだぐだ書いていても読む方だって疲れてしまうからね。
って真面目になっとる~。やっぱり真面目ちゃんな星さんのぐだぐだ不調日記はこうして最後に少し茶目っ気のようなものを狙って出しながら終わるのだった。ふざけるのを期待していたらごめんね。真面目に書いちゃったよ。やっぱり真面目ちゃんな星。てなわけで、不調には縄跳び、そしてお散歩。不調には運動。新常識。では、ばいばい。調子が悪くなった運動ですよ。
わたしは精神障害者で吃音がある40代の男です。
教会を離れたプロテスタントのクリスチャンです。6年くらい教会生活を送りました。
キリスト教神学を勉強したり、ヘブライ語もやってみたりとすごく熱心な信徒でした。
毎週のように礼拝には休むことなく参加して、教会の集会にもほぼすべて参加していました。
今はヨガの道場へ通ってヨガの練習をしています。
毎日、瞑想もしています。
最終学歴は高卒で20代の頃に大学を中退しています。
福祉の勉強をしていたのですが、精神的な不調になり中退しました。
それから仕事などに就くこともなく現在に至ります。
また、放送大学で心理学を勉強しようと入学しますがそれも中退。
金銭的な理由と心理学への興味関心がなくなったのでやめました。
資格はたしか中学生の頃に英検3級を取りました。
でも、英語はほぼ忘れたのでEnglish,I don’t knowです(笑)。
資格はそれ以外にはないです。なかなかのフル装備です。
どこにでもいる平凡な人ですがエッセイを書いてこのブログで発信しています。
「無職が何を言っても説得力がない」とか「働け」などとある人から言われましたが、生きているだけでもいいと思っています。
まずは生きていること。死なないこと。
そこからできそうならステップアップしていきましょう、というわけで今はヨガとかお料理などを一生懸命やっています。
というわけで今ステップアップしようとしているところです。
最近、HSPの本を読んでどうやらわたしがそうだということが分かり、あぁやっぱりなと思いました。
人の言動から影響を受けやすくて、刺激に対して敏感な感じで、騒がしい場所や大きな音などが苦手です。
街などで2時間とか3時間くらい過ごすとだいぶ疲れる感じです。
集中力も長くて1時間半くらいしか続かなくてそれ以上続けると調子が悪くなってきます。
あとパソコンとかの画面が苦手で長い時間やっていると決まって不調になります。
毎日のようにヨガの道場へ行き1時間半くらいの練習をほぼ毎日のようにしています。
しかもそのやっているヨガがあの運動量が多くてきついと言われているアシュタンガヨガだったりします。
たしかに楽ではなくてそれなりにきついのですが、練習が終わるとものすごく調子が良くなって気分も上向きになってスッキリします。
心身共に強くたくましくなってきて精神的な不調になることもだいぶ減ってきました。ヨガから不思議な力を感じています。
このブログのアクセス数はさっぱりですが、それでもわたしは幸せです。
と言いつつも、ちょいちょいアクセス数がどうだのとぼやいたりしてはいますが。
ちなみに彼女募集中(?)です。