今日もありがとう

いろいろエッセイ
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 母から「10年経ったら暮らしが変わっているかな?」と聞かれて何だか不安になったわたし。真っ先に思い浮かんだのが母に先立たれてやっていけるかどうか、ということ。母親に先立たれる。それは順序から言えば当たり前のことで至極当然のこと。けれど、そんな様子が想像することさえもできなくて、今のまま、今のまま母との暮らしを続けたいと切に願うばかり。しかし、何だか終わりの時が迫ってきているような、この平穏無事な毎日が一変するような出来事が近いうちに起こるような、そんな切迫したものを感じてしまう。
 要するにわたしは母離れができていないのだろうか。でも、あえて母離れする必要があるのか疑問でもある。
 ともかく確実に老いてきている母を毎日眺めながら、そして同時に老けてきている自分自身をも眺めながらとにかく不安になる。不安って言うけれど、不安はまだ起こってもいないことを予測してあれこれ考えることであって、エネルギーの無駄遣いだと言うこともできる。それはエネルギーの無駄遣いだよ、とまことしやかに言われればそれはもっともだとは思う。けれど、現に不安になっているわたしがいるのだからともかくそのことを受け止めるしかない。
 不安なの? 何が不安なんだい? やさしく自分自身に問いかけるといくつか不安なことが浮かび上がってくる。
 まず、母のいない暮らしというものが想像できない。いや、想像することさえもおぞましい。母がいなくなったらわたしはひとりぼっちになるんじゃないのかなぁ、と思う。この調子で教会へも行かないことを続ければ、教会の人間関係もないに等しいし、現在それ以外に人間関係らしい人間関係が何かあるかと言えば精神保健福祉士のWさんとのつながりとかヨガ教室の数少ない人たちとのつながりくらいで実に狭い人間関係の中でわたしは生きている。ひとりぼっち。孤独になってしまうのではないか。そして、毎日誰とも話をせずに過ごして、頭は錆び付き、生きる力も減退してそれはそれは不幸な残りの余生を送ることになるのではないか。母のいない人生はもう余生みたいなものだ、くらいに思っているところがわたしの中にはあるのでこれを考えると本当に心苦しくなる。それはまるで伴侶を失った中高年男性のようなもので一気に老け込んでふさぎ込んで生きていく意味さえも失ってしまう。
 そして不安なことの2つ目がちゃんと生活していけるのかどうか、ということ。お金はちゃんと足りるだろうか。社会的な事務的なことだったり、細かなことだったりがちゃんとできるだろうか。考え始めるとそれは正体の分からない渦のようなものでそれにわたしは巻き込まれてしまう。一人でちゃんとできるだろうか。自分のことを今のところはできる子だと信じているわたしだけれど、母に先立たれてそれでもやっていけるのかどうか自信がない。
 あぁ、永遠というものはないんだな、とつくづく思う。始まりがあれば終わりがある。それが人生であり、あらゆる出来事の法則なんだなって思う。母ともいつかは別れなければならない。この世でもう会えなくなり、お別れの時はいつかはやってくる。それが10年以内に来ない、いや20年、30年。いや、もっと母には生きていてほしい。でも、それは無理な話なんだ。特殊な最先端技術が花開いて永遠の命というものが現実化されない限りそれは無理なんだ。
 永遠の命? それってキリスト教の教えだ。母もわたしも洗礼を受けているから天国の指定席は約束されている、はずなんだ。はず、と言ってしまうのはそれが100%、絶対に裏切らないかどうかと言えばその確証がないからだ。信じている、ではなくてそれが事実なのか。本当にその通りになるのか。それは牧師も神学者のお偉い先生方も分からない。そうなるだろう、じゃ困るんだよ。確実にそうあってくれないと。
 あー、でも最後は手放すということなんだろうな、とも思う。母との別れという最大のライフイベントへの執着を手放すというか。それが今のわたしにとって最も手放すのが手強い執着なんだ。手放すというのは、何も放り捨てることではなくてそれに執着しないでさっぱりとした心でいることなんだ。あー、でも寂しいよ。祖父母を見送ったように母をも見送らないといけないかと思うと、想像しただけで涙があふれそうになってくる。こみあげてくる。でも、星よ、大地さんよ、それが今のあなたにとっての最大の試練なのだ。この最大級の大きな試練を乗り越えた時、またわたしは新たな段階へと進んでいくことができる、ように思えてならない。愛する人の死。そして、その悲しみ。嘆き悲しみどん底まで落ち込む。でも、そこからなんだ。そこからが勝負の時なんだ。それをどう乗り越えて、そこからどう生きていくのかというのがわたしに問われている課題なんだ。いつまでも悲しみに打ちひしがれているのではなくて、そこから一歩踏み出す。その勇気と言ってもいいようなあり方が問われるんだ。でもな、大きすぎる試練だな。わたしが今想像できる中で一番大きな最大級の試練だよ、本当。こればっかりは軽くやり過ごすなんてことは無理だ。あまりにも悲しすぎて死にたくなってしまうかもしれない。それくらいのインパクトがこのこれからの未来に起こる出来事にはある。
 そのものがどうでもいいものではなくて大切であればあるほどそれを失った時のダメージは大きい。でも、それさえも手放していく。そうしたダメージを受けているということ。そうした深手の傷をも手放していく。なんて言うのは簡単だけれど一番難しいことだと思う。
 いつか終わりが来る。でもだからこそ今は輝いているんだ。確実に言えることは終わりがあるからこそ今がとても愛おしいということ。このことだけは事実だと思う。終わりがなかったら喜びもなくなってしまうんじゃないか。だって永遠にそれが続いて、いつまでも終わることがないのだから。逆に言えば、終わりがあるというのは恵みだとも言える。天国は永遠だと言うけれど、この世は、そして命が有限というのは本当に神様からのギフトでありお計らいだと思う。終わりがあるからこそ、それまでの間を真剣に大切にしようとすることができる。無期限だったらいつまで経っても今を大事になんかしないじゃないか。
 母がいつまで生きるか。そして、わたしがいつまで生きるか。それは人間には分からない神様の領域だとも言える。極端なことを言えば、その母の最後の日が明日来てしまうのかもしれない。まぁ、ないとは思うけれど。わたしだって明日100%死なないかと言えば、そんな保証はどこにもない。でも、だからこそこの1日1日がありがたい。いつ死ぬか分からないからこそ生きているということがありがたく尊いんだ。
 とここでわたしは問われる。本当に1日1日を悔いなく生きているだろうか、と。どうでもいいことやあまり重要でもないことにかかずらわってはいないか、と。母と過ごせるこの平凡な1日、そして日々は黄金なんだ。何物にも代えられない宝なんだ。そのことを分かってちゃんと母と向き合って生きているのか? そのことがわたしに突きつけられる。あと20年は大丈夫だろうから、ではなくて1日、1日がまさに宝石なんだ。今までのわたしは分かっているつもりになっていたけれど、何も分かってはいなかった。終わりが来る。いつかは今の生活も終わる。だからこそ、今を大事に大事に味わって生きていきたい。
 平凡で小説やドラマや映画のような急転直下のジェットコースターのような出来事は起こらないし、これからも地味な暮らしが続いていくのだろう。でも、それが、その平凡なありふれた生活こそが価値があり尊いものだったのだ。どんなお金を払っても買うことのできないものだったのだ。
 始まりがあって終わりがある。そして、この世のものは永遠ではない。でもだからこそありふれた毎日がまばゆいばかりに光り輝いている。当たり前。当たり前だけれど普段見落としているこのこと。
 寝る前に「今日もありがとう」とお互いに言い合うわたしと母。この1回、1回のありがとうをかみしめて大事に大事にしていきたいな。お母さん、今日もありがとう。生きていてくれていることにただただ感謝。

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