星のアシュタンガヨガ日記 第2回「ヨガをやるのはヨガをやるため?」

星のアシュタンガヨガ日記
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 今日もアシュタンガヨガのマイソールクラスに行ってきた。今日で5回目、ということでだいぶ教室の様子も分かってきて、リラックスしてそこでヨガをすることができるようになってきた。いやぁ、最初は本当どうなることかと思いましたよ。だって、アシュタンガヨガって本当にハードなヨガだって世間一般では思われているし、そう言われているでしょう? だから、もう初日からヘロヘロのグロッキーになってしまって、帰ってくることさえできなくなって、緊急連絡先の母の所へ「息子さんが疲れすぎて帰れないと言っていますので迎えに来てください」なんて連絡が行くのではないか(まぁ、これは今思いついた話でその初回の時には考えなかったことだけれどね)、なんていう可能性もあったわけなんだ。でも、実際やってみたら、それなりに運動量があってきついことはきつかったけれど、それよりは高校時代の校内マラソン12kmとか体育の授業とかの方が断然きつくて、もう無理レベルという程ではなかった。教室へ行く一週間か10日間くらい前からアシュタンガヨガの太陽礼拝Aを30回くらい毎日やって準備をして行ったのが良かったということもあるかもしれないけれど、少なくとも「きついです」とか「もう無理です。限界です」と言う人にそれでもやれと言うことはない。
 前回のアシュタンガヨガ日記(第1回)にも書いた指導歴の長い先生に今日も見てもらったわたし。実は少しばかりびびっていた。覚えてくるようにとさりげなく宿題として出されたアーサナ(注:ヨガのポーズのこと)を毎日教室がない日も練習してきたけれど、今日に限ってできなかったらどうしよう、と不安だったのだ。さらには、もしかしたら何かわたしがヘマをするのではないか。そんな漠然とした不安というか恐怖感が実は昨日少しばかりあった。でも、できなかったらそれはそれで仕方がない。できないならできないだけだし、できなくても死ぬことはない。ただ、できないだけでしかないんだから。ま、なるようにしかならない。風任せの、その時その時の出たとこ勝負でいいじゃないの。そんな風に思い直したんだ。そうしたら何だか気が楽になった。で、その場になってみたら、ちゃんとできてるじゃないですか、わたし。いいじゃん、わたし。できてるじゃん。てなわけで、取り越し苦労とか不要な心配というのはこういうのを言うわけなんだな、とほっと胸をなで下ろしたのでした。
 それにしてもその先生のことなんだけど、すごく不思議な空気を放っている人なんだ。今までああいう人にわたしは会ったことがない。何か彼女からは森の空気を感じる。いや、空気というよりは森の中を流れる風といった方がいいだろうか。そう、まるで具体的な地名で言うなら、夏の長野県の軽井沢のような感じ。ひんやり、ひっそり、心地いい風がスーっと吹いて流れて循環しているかのような。だから、何て言ったらいいのかな。穏やかな気持ちのいい風が彼女の回りに立ちこめているんだ。波風がない湖のような、そんな静けさすらある。一喜一憂しないとも言えるかもしれない。冷めているわけでもなくて、熱しているわけでもなく、まさに中庸で水平な感じ。スーっと清涼な風が吹いている。これがもしかしたらヨガをある程度深めた人に見られる独特の空気なのかもしれないとも思う。
 でも、今日の先生、何だかほんの少し嬉しそうだった。わたしがちゃんと家でも練習をしているのが伝わったからなのだろうか。ちゃんとやるべきことをこの生徒さんはやっている。そんな風に思えてもらえたのかもしれない。
 この先生との出会いを通してわたしに起こった変化は、できないと思ってもまずやってみる。やろうとしてみる、ということだ。自分から求めていく。受け身ではなくて自ら率先して教えを吸収しようとする姿勢を見せる。そんな様子が伝わったことが彼女をほんの少し嬉しそうにさせたのかもしれない(でも、「わたし、うれしー!!」とぴょんぴょん跳ね回るような喜び方ではない。ほんの少し表情が上向きになるような、そんなほのかな、リアクションとしては普通に見れば見逃してしまうかもしれないくらいの微妙な感じ。言うならば微笑?)。
 そうして、朝早くに街まで電車に乗ってヨガの教室へと向かい、ヨガをして帰ってくる生活となったわたしなんだけれど、実は教室でヨガをやってくることの他に楽しみにしていることがある。それは電車や街などで女の子を見ること。これがいいんだわ。まさに目の保養。って、煩悩まみれやん!! 何がヨガだよ。静かな境地だよ。聞いてあきれるよ、と思われた方、それ正論です。何も申し上げる反論はございません。でも、わたしは執着から解放されることや欲望を手放すことを学ぼうともしているわけなのですが、どうにもこうにもこればっかりはできないのです。ヨガをやって心を鎮めるために街にある教室まで行っているのに、別の意味で心をざわつかせている。それは本末転倒なのでは? もっとも、もっとも、ごもっとも。でも、わたしは男だからやっぱり女の人が気になる。これはどんなに否定しようともわたしにとっては真実なのです。それに、教室でヨガをやってくると、アシュタンガヨガは特にパワー系のアクティブなヨガなので男性ホルモンのテストステロンなんかが高まるのか、もう帰りの電車なんかで女の子たちが燦然と輝いているように見えてしまって仕方がないったらありゃしないのです。実際、男性ホルモンのテストステロンの分泌量が増えると性欲も亢進するらしいので、これはもっともと言えばもっともなのですけど。まぁ、別の言い方をすれば心身ともに充実して元気になってくると下の方も元気になってしまう、というわけで、まぁ、どうしたもんですかねぇと思っているわけです。
 ちなみに、アシュタンガヨガでは教室へ練習に行く前に決まり事がいくつかある。一つ、シャワーを浴びるなどして身体を清潔にすること(朝シャワーですね)。二つ、食事をしないで練習に来ること(つまり、朝食抜きで練習なのです)。三つ、大便などをしっかり練習前には出しておいて体の中を空っぽにしておくこと。四つ、強い香りを体につけないこと(香水などは禁止)。そして、練習中の決まり事としては、水を飲まないこと(夏場で脱水状態になりそうな時などは例外として除く)。
 で、その中の一つである教室前の自宅でのシャワーで鏡の前に立つたびに、自分の体がすごくたくましくなってきているのを実感するんだ。と、思う。これだけたくましくなれば、性欲が強くなるのも当たり前だよな、と。煩悩を断とうとした結果、違う意味で煩悩を招いているというこの矛盾。アシュタンガヨガをやられている男性の皆様にお聞きしたいのは性欲どうしてますか?、だ。体を鍛えれば性欲もわいてくるのが当然のこと。で、どうしているのか、と。
 いや、性欲がわいてくるからこそ、それを忍耐と努力によってこらえてやり過ごす。それが男にとってのヨガと同じかそれ以上の修行なのではないか。そんな風にも思えてきた。性欲絶倫のやりまくりの聖者、なんていないように、どこかでわたしはセーブして慎まなければならない。性的な欲求に従っているだけだったら、それの奴隷じゃないか。わたしは奴隷じゃない。自ら律して自制するんだ。いやはや、これがヨガ以上の難関? コーヒーとか抗不安薬をやめるのは本当にしんどかったけれど、性欲を自制するのが一番きついのかもしれない。って、また下ネタになっとる!!(驚)でもね、これが今のわたしの正直な本音なのです。だから、分かってくださいまし。
 アシュタンガヨガをやるようになってから母はわたしに「変わってきた」とよく言う。何かものすごいエネルギーが満ち溢れてきたような。でも、結果を得ようとしてやるのは望ましいことではなくて、その結果は神様に捧げるものなのだとインドの聖典には書いてある。プラスの変化、マイナスの変化。いいことも悪いことも全部等しい。平等で優劣はない。そんな境地になれたらなと思う。そのためにはレベルが低すぎるかもしれないけれど、欲望、その中でもわたしの場合には性的な欲望を抑制する必要がある。アシュタンガヨガの教室に通い始めて今日で5回目。まだまだこれから。始まったばかりで先は長い。その5回目で見える境地は本当にしょうもないくらい低いものかもしれない。でも、わたしの中では自己最高記録を更新できていて教室へ行くたびに新しい気付きがあり成長がある。
 何のために山を登る? 何のためなんだろうねぇ。分からないな。でも、もしかしたら山があるから、という理由しかないのかもしれない。登りたいと思う。それに理由なんている?、とも言える。何のためにヨガをやる? わたしは平安を得たいからかな。あ、でも結果を求めてやるのは良くないんでしたよね。ヨガをやるためにやる。つまり、その行為のためにその行為をやる。それだけでいいような、よくないような。ヨガを続けていった先にこの答えも見えてくるかもしれない。まだまだビギナー。ヨガの初心者。ぼちぼちやっていくぞ~!!



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