佐野洋子がいい子ちゃんのわたしに教えてくれたこと

いろいろエッセイ
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 祖母の遺品。その中に『総特集 佐野洋子』というムック本があって、それを何も考えずにわたしは手に取って読み始めた。本当に何も考えず、ただ何かにひかれるかのように手に取った。そうしたら考えさせられるものがあった。
 わたしは「いい子ちゃん」だと思う。小さい時からずっといい子で来たのではないかと自分自身を振り返る。
 いい子。いい子は人を困らせない。小さい頃のわたしは母から聞くところによれば、スーパーなどで「これ買って」とだだをこねたり、泣き叫んだりする子ではなかったらしい。おそらく、生まれつきの気質というか、そういったものも比較的おとなしい方だったのだろう。親を困らせない。もちろん、悪態なんかつかないし、その場の空気をしっかりと読む。最近よく言われる発達障害のかけらなんてみじんもなくて、とにかくいい子。
 わたしはどんな時も空気を読んでしまう。そして、人から嫌われないように悪く思われないように細心の注意を払い、予防線を何重にも張り巡らす。それがいいのか、悪いのか。どっちなんだと聞かれたらおそらく平和的で優しくいい人間だということになるのだろう。そんなわたしであるから、キリスト教ともすごくなじみやすくて抵抗を感じることはなかった。
 でも、今日、佐野洋子さんの生前書かれたエッセイなどを読ませてもらったら、別に世間からどう思われるかなんて小さなことなのかもしれないという気がしてきた。なんて書いてしまうと一気に肝っ玉が大きくなったかのようだけれど、何というかわたしは人からどう思われるか、品行方正に生きていると周りから認めてもらえるかどうか、っていうことに神経をすり減らしてきたんだなって気付いたんだ。じゃあ、どう生きるって話になる。これからは自由に好きなように生きさせてもらいます、なんて一大転換をはかるなんてことをしそうな雰囲気が濃厚? いやいや、小心者のわたくしにはそんなことは無理でございます。結局、今まで通りに生きていきます。ってオイ!! 何も変わらないのかよ。
 でも、佐野洋子という生き方を少しばかり覗かせてもらって、自分を少しばかり遠くから見つめることができたんじゃないかと思う。あぁ、キリスト教的に敬虔に品行方正な生き方をするばかりがすべてではないんだな、と。いろんな生き方があって、それはそれでまたいいんだな、って。
 このムック本は佐野さんを追悼しているような構成になっているのだけれど、その寄せられている生前親交のあった人たちの文章がとても良かった。飾らぬ裸のままの、剥き出しの佐野さんと直球勝負をしてきた彼らのこれまた飾らぬ言葉がとてもいいのだ。きれいな表面を取り繕うようなそんな言葉はどこにもない。ただ、人間くさいいわば泥臭いような佐野さんとの思い出が語られている。わたしは彼女と比べるわけではないけれど、ここまで腹を割って話ができるような友がいないから、彼女がうらやましい。って何を身勝手な。佐野さんは人生の激流を生き抜いてこられたような方なのだ。不安定で自由奔放でまさに芸術家肌の彼女はもちろん問題があった人でもあった。でも、そんな彼女を丸ごと受け入れてとことん付き合いその飾らぬあり方に惚れ込んだ友たちがいた。
 最後には骨になる。どんなに清く正しい人も、どんなに濁っていて不正にまみれた人も等しく死に、最後は骨になる。だったら、人の顔色をうかがう生き方なんかしなくてもいいんじゃないか。自分が生きたいように、ありたいように生きていった方がいいんじゃないか。もちろん、誰かを傷つけたり自分自身を傷付けるようなことはダメだけれど、それ以外のことだったら好きなようにやってもいいんじゃないか。
 祖母と佐野洋子さん。祖母は佐野さんが好きだった。祖母が佐野さんに共感し、好きだった理由は自分と近い人間のように感じたからではなかったかと思う。祖母を何倍にも強烈にしたのが佐野さんだとわたしは思うから、近いがゆえの、同じ空気を感じていたがゆえの好きという気持ちだったのではないか。
 最期の最期で天使のようになってわたしたちに「ありがとう」と言いつつ旅立っていった祖母。祖母の人生、決してほめられたものではなかった。行くところ、行くところ問題が起こっていた。
 祖母とか佐野さんのように生きたら問題が起こる。でも、彼らの生き様から学べることはある。もう少し自分の思うように生きてみようかな? といい子でやってきたわたしはふと思う。もう少し空気を読まなくてもいいんじゃないの? 時には感情を高ぶらせてもいいんじゃないの? あ、でもヨガをやっているせいか全然感情が高ぶらない。キレないし、怒らないし、そもそもイライラしない。ってまた違う意味で問題発生?(苦笑)いやはや、困ったものだ。どうしたもんかねぇ。困った、困った。

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