ざる

いろいろエッセイ
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 母が以前買った物にこんな物があった。100円のざる。そのざるは人を心配にさせるざるだった。と言うのも、いかにも今にもざるが抜けて落ちてしまいそうな感じがするのだ。何かをゆでて、それをざるにあける。もちろん、ざるはその入れたものを普通はしっかりと支えている。しかし、そのざるは今にも抜けそうで、見ているとハラハラしてくる。「大丈夫か?」と言いたくなる。わたしはこの40年近い人生の中であれほどざるを心配して不安に思ったことはない。結局そのざるは処分して捨ててしまったのだけれど、冒頭にこの話を持ち出したのは、ざるはしっかりとした安すぎないものを買いましょうと言いたいからではない。そうではなくて、わたしたちはみんな、ざるみたいなものだと言いたいと思ったからだ。
 わたしたちは毎日生きて生活している。そうするといろいろなことがある。いろいろなことがあって、いろいろなことを考え、思い、心を動かされ、その結果、いろいろな思い出が出来上がる。それは固い言葉で言ってしまえば記憶なのだけれど、ともかく何かが残る。その過程が簡単に言うと、ざるみたいだと思うのだ。
 わたしたちは読書や勉強などをすると本や教科書に書いてあることをできることなら一字一句覚えたいものだと思う。でも、そんな神技は無理だから、せめてうっすらとでも何かその成果として頭に残したい。そして、進歩した自分になりたい。本を読む前よりも賢くなっていたいと普通思うことだろう。そういうわけでわたしたちはとかく目の粗いざるではなくて、目の細かいざるでありたいと思う。これはもっとも。目が細かい方がたくさん自分の中に残すことができるし、その方が勉強した甲斐だってある。勉強したり本を読んだりして頭の中にその内容がほとんど残らないとしたらやる意味ないよ、と思ってしまう。でも、わたしは『ぼくたちに、もうモノは必要ない』という一見そうした学習などとは関係がないように思える本を読んで考えが変わったのだ。自分がたとえ粗いざるだったとしてもそれでいいんじゃないか、と思い直したんだ。
 というのは、自分に残っているもの、それも今の自分に残っているものは自分にとって本当に必要なものだからだ。つまり、今の自分に必要ないことはことごとく忘れているということで、必要なものだけが厳選されて残っている。
 この思想というか、考えに出会う前のわたしは百科事典のようになることがいいことだと思っていた。大量の知識を頭の中にインプットしてそれを縦横無尽に駆使できる。そんな人こそが賢い人だと思っていたし、信じてさえいた。博学な人こそ賢い人なのであって、知識がほとんどない人は駄目な存在だと思っていた。でも、考えを改めた。それに優劣はない。ただ知識が多いか少ないかという違いが多い人と少ない人の間にあるだけであって、両者に優劣はない。
 わたしの祖父(このブログでも過去に書いたことがある。去年の12月に亡くなった)は本をとにかく読まない人だった。知識量は本当に少なかったし、晩年は認知症にさえなった。でも、今思うのはそれが祖父にとって必要な知識量だったんだということ。祖父は知識を必要としていなかった。求めていなかったし、それを得ることに喜びを感じる人でもなかった。祖父は物忘れがあって、重度の認知症ではなかったけれど、それでも普通の人よりはいろいろなことを忘れてできなくなっていた。祖父はわたしと母と会うといつもこう言った。「体には気をつけろよ」「困ったことがあったら親戚のYに相談してくれよ」「ご飯は食べれている。元気だ」。わたしたちに言うことはいつもこれくらいでそれ以外のことは言わなかった。これを多くの人はかわいそうに、認知症になって認知機能が落ちてしまったんだと思うかもしれない。でも、祖父には祖父にとっての大切な記憶がしっかりと残っていた。わたしと母のことはしっかりと覚えてくれていたし(ただ時々母を別の人と勘違いすることはあった)、もちろん祖母のことも忘れてはいなかった。そして、わたしたち親子のことをしっかりと気遣う優しい気持ちも忘れてはいなかった。今思うと、それだけでそれだけで十分ではないだろうかと思う。本当に必要なことを覚えている。それも今の自分にとって本当に必要なことだけが絞られて絞られて残っている。それだけで十分すぎるではないか。
 祖父の頭の中にあるざるの目は相当粗くなっていたのだと思う。目が粗くなり、粗くなり、大きく大きくなった。だから、多くのこと、それも今まで自分が持っていたものもそこからたくさんこぼれ落ちて流れてしまった。でも、だからこそ本当に必要なものだけが残った。本当に必要な、自分にとって大切なものだけが残った。もしかしたら本当のミニマリズムとは忘れることでもあるのかもしれない。必要のないものを手放していく。それはモノだけではなくて記憶もそう。
 わたしたちは生きるための特にこれといって必要のない知識を頭の中に詰め込みたがる。人から賢いとか頭がいいとか思われたくてそんなことを熱心にやる。でも、本当に必要なこと、そして必要なものはとても少ないんじゃないか。そりゃあ、知識が豊富だったり専門性が高い人と話をするのは楽しい。話題も豊富だし、何よりも教えられるからだ。でも、それにこだわる必要はないような気がしてきた。知識が少なくても、気の利いたことを言えなくても、冴えたことが言えなくても別にそれならそれでいいように思えてきた。その知識が少なくて、気が利いたことが言えなくて、冴えていないのが自分なのであって、そして、今の自分こそが自分にとって本当に必要な自分の姿だからだ。厳選されて必要なものを絞り込んできた姿だからだ。少なくともそれが自分にとってのベストな姿なんじゃないか。と言ってもそう思えない人が大半だろう。いや、もっと頭が良くなりたい。もっと体脂肪を落としたい。もっと情緒を安定させて穏やかになりたい、などなど、もっとこうなりたいという理想の姿はあるかとは思う。けれど、何だかんだ紆余曲折を経て、いろいろな経験をして、いろいろなことを乗り越えてきてたどり着いたのが今の自分なんだと考えるのであれば、それが今できる限りの最善の姿なのだとわたしは思う。精一杯なのだと思う。だって、要らないもの、不必要なものは淘汰されてもうすでに自分から離れていって手放されているのだから。だから、一見無駄だと思える贅肉も必要だから今ここにこうしてある。必要でなかったら今ここにこうしてあるわけがない。必要だったから体にお肉として付いているんだ。そう考えていくと、自分の体にとって、あるいは感情にしてもすべてが自分にとって必要なものなのだと言える。たとえそれがネガティブなものだったとしてもそれは必要だからこそあるのだ。残っているのだ。
 今の自分。たしかにもっとこうあったらいいのに、と思ってしまう。けれども、自分にとっての最善の形が今現在の自分なんだ。たとえそれがどんなに歪んでいて醜かったとしてもこれが最善なんだ。だからこそ、それを肯定できたらと思う。
 たとえ頭の中のざるが普通の人よりも粗かったとしても肯定的にとらえるのであれば、それだけ要らないものを分けることができるのだとも言える。無駄な記憶や知識に煩わされないでさっぱりと生きていくことができるのだ。
 だから粗いざるでいいと思う。もちろん、細かいざるであっても。それが自分なんだから粗いと嘆いても仕方がない。その自分なりのざるでいろいろなものを漉して、最後の残ったもの。それこそが自分にとって必要なものなのだと思う。だから、日本史や世界史の年号だって、歴史上の人物の名前だって忘れていい(テストでは点が取れないけれど)。必要ないものはどんどん忘れてしまっていい。それでも忘れられない本当に大切なものは、必要なものは、覚えていようとか思わなくてもしっかりと残っている。覚えている。それでいいんじゃないか。全部覚えていようとか思わなくても、その記憶のフィルター、要するにざるがしっかりと必要かどうか判断して必要なものは残してくれるのだから。
 認知症になってもならなくても最後に残るもの。それこそ大事なもの、かつ必要なもの。自分にとって大事なものさえ残っていればいい。ある牧師は「すべて忘れてもイエスさまのお名前だけ覚えていればいいんですよ」と認知症がひどかった高齢の信徒に一言言った。それでいいのかもしれない。最後に一番大切なことだけ覚えていればいい。捨てて捨てて、手放して手放して最後に残ったもの。それはまばゆいばかりの光を放っているに違いない。



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