幸せな人は人生の意味を問わない

いろいろエッセイ
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 今日、珍しく新聞を読んだ。いつもなら新聞を読まないのになぜか読んだ。そうしたら、「幸せな人は人生の意味を問わない」というようなことが人生のお悩み相談のコーナーに書いてあって、もっともだなと思ったのだった。
 人は人生の意味を問わなければ生きていけない存在なのだとよく誰かが言っている。でも、わたしは思う。問わなくても生きていけるんじゃないか、と。というか、人生の意味を問わなくなった時、つまりその必要がなくなった時というのが幸せになった状態なのだ。
 かく言うわたしも10代、20代のころは人生の意味を問うていた。人はなぜ生きるのだろう、とか、人生に意味はあるのだろうか、とひたすら自問自答していた。
 で、時は流れわたしも今年で40歳。40代になろうかとしている。最近のわたし、人生の意味問うている? 全然問うていない。っていうか、その必要を感じない。何も自分の幸せ自慢とかアピールをしたいわけではない。ただ問うていないのだ。
 人生の意味とか意義を考える人というのは大きく分けて二種類いるんじゃないかとわたしは思っている。ひとつめのタイプはただ純粋に哲学的にものを考えるのが好きで考えずにはいられないという人。そして、ふたつめのタイプは苦しい人。前者の根っからの哲学人間というのはおそらく少数派で、人生の意味を考える人の多くは後者の苦しい人ではないかと思う。
 人生の意味をひたすら考え続けていたい。人生の多くの時間をそのために使いたい。そういう人もいるかと思う。けれど、それは人生というものを生きていないんじゃないか、という風にわたしには思えてならないし、見えてしまう。まぁ、そうは言っても、考えるという営みを送って人生を過ごしているのだから、それも立派な生き方なのかもしれない。でも、何か違うんじゃないかと思う。
 7月の終わり頃から散歩(ウォーキング)を始めて今日で3週間あまりになるのだけれど、歩くというのはすごくいい。すごく精神状態が良くなるし、活力もわいてくるし、物事をポジティブに見ることができるようにもなってくる。
 歩いていると、赤トンボが飛んでいる。それも結構な数の赤トンボが。セミも鳴いていて夏を彩っている。田んぼは今、黄金色にまばゆいばかりに稲の穂が光り輝いていて収穫を今か今かと待ちわびている。空が本当に青い。夏の入道雲がもくもく、もくもくしていて夏を感じさせる。昼間歩けば照りつけるような日差しが降り注いでくる。でも、この暑いということが自分が生きていて今ここにいることを改めて実感させてくれる。さらには様々な鳥たちを見ていると、彼らが無一物で何も持たず本当にその日暮らしをしていて、軽やかにしかし懸命に生きていることが伝わってくる。
 と、ここまで生きているという現実感や充実感がある人がどうして人生の意味を問わなければならないのか? いや、もはやそうした人には人生の意味だの何だのと問う必要はないだろう。そんなことを問わなくても、人生は今ここにしっかりとあって、それを生きることができているのだから。
 わたしのように身軽でお気楽な立場にあるのではなくて、何か責任ある立場にある人は無職の人間には言われたくないと思われるかもしれない。でも、まずは騙されたと思って、5分でも10分でもいいから歩くなどの運動をしてみてほしい。実際やってみると絡み合ってもう無理なんじゃないかと思えていた問題がだんだんほぐれてくるのを感じられると思う。そして、何を自分はこだわっていたのだろう、とまた別の視点からその問題を眺めることができるようになるし、自分自身の視野が狭まっていたということにも気付くことだろう。
 必要なのは問うことではなく、実際に体を動かして感じてみること。体を動かさずに考えてばかりいてもいい知恵は浮かんでこない。
 体を動かさずにいると大抵人は考えることがネガティブになってくる。そして、どんどんネガティブ路線を突き進んでしまう。でも、そこで待ったをかける。待ったをかけて体を動かすのだ。そうすれば道は開けてくる。本当、お散歩教とかウォーキング教とか作りたいくらい。
 人生の意味を、それだけを何もせずに考え続けていてもおそらく答えは出ない。体を動かして人生を実際に生きていく中でしか答えは出ないと思うのだ。が、どちらにしても答えは出ないのかもしれない。何をやったとしても、どんな風に人生を送ろうとも答えは出ないかもしれない。けれど、日々を真面目に過ごして、人生をしっかりと生きることができていれば、たとえ答えが出なかったとしても自分の人生にはおそらく満足できているだろうから、そもそもその答えは必要なものではないのだ。答えが見つかろうか見つからなかろうが自分の人生は素晴らしいものだとその人は思えているのだから、この人生の意味といういわば理屈は大して重みを持つものではない。
 強制収容所体験を綴った『夜と霧』で有名なヴィクトール・フランクルの言う「人生の意味」、それもその意味自身が問いかけてくるというのはどうもわたしにはしっくり来ない。訝しげに「はぁ?」って感じでしかなくて、何もその言葉の有り難みが分からない。神様があなたを造られたのだからあなたの人生には意味があるのですよ、などという言葉もキリスト教の信仰がない人には「はぁ?」だろう。それらとは異なってわたしが人生の意味だと思うものは、体を動かして人生を生きていく中でおのずと気付くもの。あるいは気付けなかったとしてもその人が幸せであれば特に問題はないというもの。乱暴なようだけれど、今がとても幸せなら、それも輝くばかりに生命の輝きに包まれて幸福を感じているなら、そんな人生の意味だのどうだのというのはどうでも良くなるものだよ。詰まるところ、ある程度の人生計画は必要なものの、今が良ければそれでいいのだとわたしは思う。というか、今を良しとしなければ、いつ今を良しとできるの?、という話だ。今に満足できなければ、良しとできなければおそらくいつまでそれを続けていっても満足できないし、良しとはできないだろう。
 だから、幸せな人は人生の意味を問わない。問う必要がそもそもない。こんな調子で偉そうに書いているわたしも矛盾しているようだけれど、苦しくなるとやっぱり「何のために?」とか「意味はあるのだろうか?」などと意味を問うてしまう。そして、またそういう時は決まって運動不足になっているから散歩に出掛けたりヨガをやるようにしようと、まるでパソコンを再起動するかのように再スタートしようとする。で、また持ち直して気持ちを新たにし、また運動不足になり不調になり、また体を動かして再起動……と調子がいい時間が長くなってきてはいるものの繰り返してはいる。
 人生の意味を問うことがどうでもいいとか必要のないことと思えるようになって卒業できた時、人はその人自身の本当の人生の意味というものを体現した生き方ができるようになる。意味を問うのではなくて、いわば意味そのものを生きる。そんな生き方ができたら素敵ではないだろうか。少なくともわたしはそんな生き方を目指している。



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