ヨガのゴール、人生のゴールは平安

いろいろエッセイヨガ
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 世の中にはすごい人たちがいるもので、ヨガの世界でもアシュタンガヨガと呼ばれる難易度の高いものすごく体を酷使するヨガがある。そして、それができるヨガの世界でもいわば優れた人たちが一定数いて、わたしはそんな彼らと自分のヨガの達成度を比較して、ああなりたい。アシュタンガヨガができるようになりたいと思ったりするのだった。
 たしかにアシュタンガヨガは難しい。初心者には太刀打ちできないような、そんな難しいポーズがたくさんあって、とてもではないけれどわたしのようにまだヨガを始めて間もない人間には雲の上のようだ。
 で、アシュタンガヨガについてあれこれ考えているうちに、パッと気付いた。それは核心をついていてすごく本質的なこと。何でアシュタンガヨガのような難しくてハードなポーズを人はやろうとするのだろう、と考えていたら、ポツリと一言、わたしの中から言葉が出てきた。「平安」を得るためなんじゃないか、と。
 平安。別の言葉で言うなら、平和とも言えるだろう。その心が満ち足りた穏やかな状態になりたくて、人はヨガをして、時にはアシュタンガヨガのようなハードな運動をしたりもする。
 この言葉について思いをめぐらせていたら、この世の中のもろもろの事柄がはっきりと見えてきた。そうだ、そうなのだ。みんな、平安を求めているんだ。わたしはそうではない、などと強がる人がいたとしても、少なくともその人だって苦しい嫌な状態ではなくて、幸せになりたいとは思っていることだろう。
 人は幸せになりたくていろいろなことをする。読書をしたり、勉強をしたり、お料理をしたり、運動をしたり、その他いろいろなことをする。それらを突き詰めていくと、最終的には平安がほしいんじゃないか。心が満ち足りて穏やかな状態を得たい。そのために人は懸命に何かをする。すべては幸せになるため、平安になるために。
 だからこそ、何かを平安を得るためにやってみて、かえって心をかき乱されたり、ネガティブな感情になってしまったりするようでは、平安とは逆方向に進んでいるのだとわたしは思う。幸せに、平安になるためにやったことでかえって逆効果になるのであれば、やっぱりそれは自分にとって平安を得る方向性から外れてしまっているのだ。
 無理をして限界以上に勉強や読書を根詰めてやってしまう。自分の体力以上にハードな運動をしてしまう。おかしくなるくらいまで仕事をする。これらはやりすぎることによって、平安から遠ざかってしまっている。
 本来、人はより幸せになりたくて何かをする。平安になりたくて、それを得たくて何かをする。だったら、自分自身、それをやることが平安か否か、それが平安につながっていくかどうか、という基準で物事を判断していけばいいんじゃないかとわたしは気付かされた。
 だから、ハードなアシュタンガヨガにしてもその難しいヨガのポーズを取ることが自分にとって必要でより平安へとつながっていくのであれば、それを追求して挑戦していけばいいし、これはちょっと違うかなと思えば別にあえてやらなくたっていい。難しいポーズができるかどうかが本質なのではなくて、それをやることによって平安が得られるかどうか、ということが本質であって、一番大事なことなのだから、この本質的なことを見失わないようにしたいと思うのだ。
 ヨガに限らず、世の中には達成することが難しいものがたくさんある。それらは難しいがゆえに達成できた時には大きな喜びがあることだろう。そして、人はその喜びを求めて果敢に挑戦していく。険しい山を登る。なぜ登るのか? 山頂から見える登った者にしか見ることができない景色が待っているから。その景色は素晴らしく心を満たしてくれることだろう。わたしはそれも平安なのではないかと思う。心穏やかで満ち足りた気持ちだから、これも平安なのだ。
 ヨガは執着を手放していくためのトレーニングでもあると思う。手放せるものを手放していって、そのことによって身軽に自由になっていくのだ。そして、何もこだわりのない澄みきった心で物事を見ることができるようになるのが目標。自分にとって必要ではないものを手放していった先に訪れる境地、それが平安なのだ。
 考えてみるまでもなく、ネガティブな感情を抱いてしまう時というのは、その物事にしがみついてしまっている。つかんで離そうとしない。だから、苦しい。そのことで頭がいっぱいで、そのことしか考えられない。執着している。だから苦しい。だからこそ、それを手放す。わたしもまだ完璧にはできていないけれど、それでも手放すと心が落ち着いてくる。こうした心の作業がうまくできない時はヨガをやって体を動かす。おだやかな呼吸をして、体の感覚に耳を澄ませる。自分の体と心からの声を聴こうとする。そうすることによって、少なくともそのこだわっている問題から距離を置く。そうすると、心の作業だけではうまく解きほぐせなかった絡まった糸がスルスルとほどけていく。スーっとネガティブな感情も消えていく。氷が溶けてなくなっていくかのように、スーっと消えていく。心が平らになってきて、波風立っていたのが静まってくる。
 わたしは平安を求めていきたい。心穏やかに微笑んでいるような、そんな境地を目指していきたい。それは執着じゃないかって? いえいえ、最初はこれでいいと思う。最初は自分を律するようにやっていって、それである程度のところまで進めたらその平安を得たいといういわば執着も手放していく。平安を得たいという執着をも手放せたとき、不思議なことにそこには本当の平安が待っているのだと思う。平安を得たいという執着すら消滅した先にある平安。それはもちろん苦しいとか悲しいではなくて、反対に嬉しいとかそういう状態でもない。ただそこに静かで穏やかな波風一つない池があるみたいな。それが本当の平安なのだと思う。もしかすると、それは無なのかもしれない。そこにも神様はおられるだろうとわたしは思うけれど、それでも無なのかもしれない。寂しいとか無意味とか、そういった否定的な意味での無ではない。肯定的なゆらぎさえもない無。いや、それは否定とか、肯定とかそんなせせこましい人間の思いなしをおそらく超越している。すべてが一つで、すべてが調和している、そんな悟りの世界。
 と、話のレベルが急に高くなってしまったけれど、わたしは心穏やかにこの人生を、毎日を送っていきたい。そんな等身大の平安をまずは求めていきたい。そして、ゆくゆくは悟りたい。ってクリスチャンが悟りたいとかダメだってば(笑)。それは禁忌でしょ。まぁ、悟るなんていうのはおそらく無理だろうから、心穏やかに毎日過ごしていけたらな、って。急に目標下がりましたね。いえいえ、物事には段階というものがあるのです。だから、あせらずできそうなレベルからやっていく。で、ゆくゆくは悟りを。ってオイ!! 
 わたしのヨガのゴール、ならびに人生のゴールを平安と設定したので、地道にコツコツやっていきたい。平安目指してやっていくぞ。

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