本当に美しい花

ヨガ
この記事は約6分で読めます。

 わたしが嬉しく思う瞬間。それはヨガをやることによって、心と体が整えられていくことを実感する時。
 毎日ヨガをやっている。自分に磨きをかけて、より向上しようと日々励んでいる。その甲斐あってか自分自身が良くなってきている。見た目も内面も心も、ありとあらゆる面が進歩している。
 わたしが花だとしたらわたしは何のために咲いているのだろう? 誰かから「きれいだね」って言われるため? あるいは商品価値がわたしという花に付けられて、高値で取引されるため?(値段がついたとしたらよりその値段を高める) いやいや、人間なんかではなくて神様にほめてもらいたいの? わたしはそのどれでもなくて、ただ自分が美しい花を咲かせていたいがために咲いているのだ。何だ、自分のためかよ。自分がそれが嬉しいからやっているだけなのかよ。そんな声が聞こえてきそうだ。
 わたし自身、すごく利己的だと思う。自分が進歩向上することが、美しい花を咲かせていることが嬉しいから毎日自分を磨き上げて精進している。ただそれだけ。それだけなんだ。
 誰かからほめてもらえばもちろん嬉しい。花だったら「きれいだね」って言ってもらうことは嬉しいことだ。でも、それは他者の評価に依存している。みんなから「きれいだね」って言われることだけに頼り切ってしまっているから、そういう人はみんなからチヤホヤされていないとすぐに不安になる。自分の価値を他者に決めてもらう。それってすごくもろい。もちろん、枯れることなく無尽蔵に賞賛の泉がこんこんとわき出すのであれば、それでもいいかもしれない。でも、そんなことはありえない。どんな人だって、物だっていつも絶好調で最高潮にちやほやされて話題になっている、なんてことはない。だからこそ、わたしはそういう不安定な他者というものに依存しない方向でやっていきたいんだ。誰もほめてくれない。誰も「いいね」って言ってくれない。でも、いいじゃない。自分とあと神様が「いいね」って言ってくれれば。何も貪欲に他の人からの賞賛を求める必要なんてない。
 あるいは、自分という花に商品価値が付けられる。自分の市場価値みたいなものが付く。そして、それが上がっていく。みんなから必要とされる。わたしはお金を生み出せる。わたしがやること、なすことがことごとく評価されて、お金がざくざく入ってくる。わたしは人気者。有能な存在。でも、そればっかりに頼り切って、それだけが自分の価値という感じになってしまうと、その人気だったり業績だったりに陰りが出てきてしまうと、途端に自信を失ってしまう。
 わたしはそうした他者からの評価だったり、承認だったりを全否定したいわけではない。ただ、それらは嬉しいものではあるのだけれど、それをすべてにはしたくないんだ。
 わたしが求めていきたいもの。それは平安だ。ヨガをやることによって体が美しくなるという効果はもちろんあるけれど、それがヨガの本来の目的ではないということが分かってきた。ヨガの目的。それは平安なんだ。そして、最終的には悟りを得るというのが究極的な目的。その悟った状態というのが本当の意味での究極の平安なのだと思う。とは言いつつも悟るのはおそらく無理だろうから、少し気持ちを安定させるとか、まわりに流されないようにするとか、まずはそうした小さな目標からやっていくつもりだ。
 日に日に、悟った状態ってどんな状態なんだろう、と興味がそちらの方向へと移ってきている。美しい花を咲かせていたいとさきに書いたけれど、その悟った花って美しいという言葉では形容できない美しさなんだろうなぁ。無上の、至福の、そんな美しいとかどうとかそういうものを超越した美しさがあるんだろうなぁと思う。
 わたしは美しく咲いていたい。人から見てどう見えるかとか、人からどう評価されるかとか、他の人と比べて美しいかどうか、ではなくてただただ己の信ずるががままに美しく咲いていたい。わたしのことだから、この世で立身出世したり、有名になったりすることはおそらく無理だろう。でも、そんなこととは関係なく、ただただ自分なりの美しい花を咲かせていたい。
 そう考えていけば、このブログの文章だってわたしという花の一部だ。美しい文章なのかどうかは分からないけれど、それでも何か意義のあることを書けていたらそれはそれで意味があるのだろう。でも、たとえこのわたしの文章を誰も美しいとか価値があるなどと評価してくれなくても別にいいんだ。って評価されれば嬉しいけれど、自分で書いていて「おっ、これはうまく書けたんじゃないか」と思えた時にはアクセス数がさっぱりであっても嬉しいし、自分自身満ち足りた気持ちになれるんだ。わたしの一部、つまりは花びらのようなわたしの文章。誰かがそれを読んで何か感じるところがあったら、「きれいだな」とか思ってくれたら、それはやっぱり嬉しい。
 中にはわたしのことをけなす人もいる。でも、その人にはわたしという花の魅力が分からなかったのだと思うようにしている。どんな花であっても何かしらの魅力、美しさはあるはずだから、それがたまたまその見た人の美的センスに合致しなかっただけのこと。だから、まぁ、そういうことがあっても仕方がないもんだと割り切りたいと思っている。文章もしかり。ある人は絶賛、ある人は酷評してけなす。好みにはいろいろありますからね。ま、一般ウケする美しさもあるけどね。
 そういうわけで、わたしは美しい人になりたい。花として美しい花を死ぬまで咲かせていたいんだ。わたしももう今年で40。でも、人間、若ければいいってもんじゃない。いや、むしろ美しい歳の取り方をしていけば、より円熟味がかかった若いだけではないその年齢相応の美しさというものに到達できる。そんなことをアシュタンガヨガの先生のケン ハラクマは本の中に書いていた。歳を取れば取るほど、より美しくなっていく。そして、どこまでもどこまでも美しさは高められていく。そんなこともケン先生は言っていた。
 何をやり、何をやらないか。どんな人生を送っていくか。すべては自分次第。何かをやればそのような人間になっていき、何かをやらなければそのような人間にはなっていかない。物事はとてもシンプルだ。
 美しさとは美しくなろうとしてなれるものなのか? 何かをどんどん足していけば美しくなれるのか? いや、そうではなくて本当の美しさというものはシンプルなのだと思う。必要ないものを徹底的にそぎ落としていって、本当に必要なものだけを残した先にそれはあるのだろう。高級化粧品を顔に塗りたくれば美しくなれるかと言えばそうではなくて、本当に必要な最低限のことだけをやり、限りなくゼロに近付ける。その結果が本当の美しさということではないか。
 美しい花を咲かせていたい、と書いてきたけれど、本当に美しい花を咲かせるためにはそうした思いをも手放して無執着となり、美しいと思われたいとか評価されたいとか、そうした煩悩を浄化させる必要があるのではないかと思えてきた。そして、その無私の浄らかで透き通ったまるでこの世のものとは思えない美しさこそが究極的な美しさをも越えた美しさなのだと思う。もうこうなると、美しいとかどうとか、そういう次元ではない。もうそうした俗な表現を許さないような神々しささえその花には漂っていることだろう。だから、「わたし、きれいでしょ?」とか「わたし、イケてない?」などと言っている段階はまだまだ青いのだ。不完全でまだまだ本当の美しさへは到達できていないのだ。いや、到達するとか、しないとかそういうのを超越しているレベル。それが悟っている花なのだと思う。本当に、究極的に美しい花なのだと思う。
 わたしが思う美しい花。それも本当に美しい花は、静かにひっそりと何も誇ることなく、ただそこで静かに柔和な微笑みをたたえている。そんな安らぎの境地になりたい。そんな平安に憧れつつ、今日もわたしはヨガをやる。

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました