楽しい?

いろいろエッセイヨガ
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 今日はヨガ教室だった。おばちゃんたちに囲まれながらヨガをやってきました。ヨガをやると、それもヨガ教室でヨガをやるといつも以上に整うというか、とても贅沢な時間を過ごしたなぁという気分になる。何せ、自分の体と心のメンテナンスのためだけに時間を使うのだから、当然と言えば当然なのかもしれない。
 で、ヨガ教室が終わると、ヨガの先生と話をする。先生にとってわたしは手の掛かる生徒さんとして映っているのかもしれない。ないとは思うけれど、もしかしたら面倒くさい人だと思われているかもしれない。けれど、そんなことは本人に聞いてみないと分からない。ともかく、わたしは先生と話がしたい。ヨガの話をしたいのだ。前回、話題がアーユルヴェーダになって、「こんな本がいいですよ~」と先生におすすめしたわたし。話はそこから始まった。星の一日が舌磨きから始まることや、ゴマ油のオイルマッサージをしていることとか、ゴマ油は夏場には向かなくて、夏はオリーブオイルかココナッツオイルに切り替えた方がいいこととか、他には先生にヨガの資格の位置づけについて聞いてみたり、先生はどう思っているか分からないけれど、わたしにとっては実り多き時間だったのだ。
 話がもう20分くらいは続いただろうか。そろそろ、と思ったわたしは話を切り上げてお礼を言って会場を後にした。その別れ際というか、最後の方で先生はわたしにこんなことを言ったのだ。言ってくれたのだ。
「楽しいことを選んでいってほしい。」
 言ってもらった瞬間は腑に落ちない言葉だった。ワクワクでも、幸せでも、胸が高鳴る、でもなく、もちろんちむどんどんする、でもなく、「楽しい」。「ワクワクする、ということですか?」と聞き返したわたしに先生は「そういうことです」と言ってくれたけれど、ワクワクと楽しいはまた少しばかりニュアンスが違う言葉だ。
「楽しい」。この一言にヨガの先生の人生のこれまでの経験や、思いや、考え、思想、哲学がこれでもかとばかりに凝縮されている。まるで固い固い結晶のような、意志の強ささえも感じさせるような、信念がしっかりと注がれているような、そんな言葉。
 わたしたちは日常会話でも日々の生活でも「楽しい」という言葉を無自覚に使う。けれど、ヨガ教室からの帰り道で「楽しい」ってどういうことなのだろう?、と改めてわたしは考え込んでしまったのだ。
 あまりにもわたしは「楽しい」という言葉を普通に使いすぎていた。この言葉は多くの場面で使われてしまっていて手垢にまみれている。でも、これが本質なのではないか。ヨガを含めた人生の本質。まるで掘り進めていった先でカチンとつるはしの音がしたような感じ。ここだ。ここにおそらく本質、決定的な、一番大切なことがある。
 人は楽しい時、そのことに夢中になり時間を忘れて没頭する。そして、この時がいつまでも続いてくれたらと思う。楽しければワクワクするし、幸せだし、満足感があるし、人生って素晴らしいって思える。反対に、人は楽しくない時には、そのことが苦痛であり、退屈である場合もあり、早く終わらないかと思ったり、これが続くのだったら生きているのが嫌だとさえ思う。楽しくなければワクワクしないし、不幸だし、不満があるし、人生ってつまらないとか嫌なものだって思えてしまう。
 つまり、この「楽しい」という言葉には叡智がしっかりと詰まっていて結晶化されている。
 楽しい時間が多い人生はもちろん満足度も高いし、まさに幸せそのものだ。
 幸福、幸せは「楽しい」で自分の人生をいっぱいにすることなのではないか、とヨガの先生の言葉を受けてわたしは思った。
 わたしの人生が花壇だとすると、それを「楽しい」というきれいなお花でいっぱいにする。人それぞれ違うから、そこにはお花だけではなくて、美味しそうな野菜があったりするかもしれない。自分が好きな植物でいっぱいにする。それが楽しく、幸福な状態なんだと思う。
 反対に不幸な状態とは自分の花壇が荒廃していて、そこには毒々しいネガティブオーラを放つ毒草などの奇怪な植物が生い茂り、糞尿や嘔吐物がまき散らされている。そして、誰もそこには寄りつこうとはしなくて、悪臭が漂っている。
 わたしたちはともすると、人から立派に思われたくて見栄を張ってしまう。自分は花壇にイチゴを植えたいわけではないのに、上手に作るとみんなからすごいと言われるからと植える。イチゴを育てたくないのに育ててしまうのだ。本当はダイコンを育てたかったのに、本心を押し殺してイチゴを育てたのだ。そんな感じで自分が楽しいと思えないことをやり続けていくと、しまいには自分の花壇が自分の好みに反するものになってしまう。たしかに、そうした花壇は他の人からはほめてもらえるだろう。言うまでもなく、それは他人がほめてくれるものしか植えていないのだから。自分が育てたいものと、人がほめてくれるものが一致するならいいけれど、自分がやりたいものがほめてもらえないからと本心からではないものを植える。
 まだこれが花壇にダイコンを植えるか、イチゴを植えるかといった話ならまだいい。しかし、やりたいことをやらずに、やりたくないことをやり続けたとしたら、自分の人生がやりたくないことでいっぱいになってしまう。楽しくないことでいっぱいになってしまうのだ。楽しくないことで自分の人生が満ちあふれれば、当然それは楽しくなくて幸せだとは思えない。人生の終わりには「俺の人生は何だったのだろう」と苦悶することになる。
 楽しい、つまり別の言い方をするなら、自分の人生の進み具合や方向性を考える時には「楽しい?」と自分自身に問うてみるとよいということなのだ。そして、それが全体に及べば「幸せ?」という質問にもなる。「今、楽しい?」「今、幸せ?」。そう自分に聞いてみるのだ。心から満たされていれば「もちろん!」と即答することだろう。そうでなければ「ちょっと……」とか「ぼちぼちだけど、でも……」とかワンクッション入る。
「楽しいことを選んでいってほしい」という先生の言葉はわたしに「幸せになっていってほしい」と言ってくれていることと等しいんじゃないかと思う。
「楽しい」という言葉は範囲が広い言葉だなぁって思う。「ワクワクする」よりも「楽しい」の方が領域が広い。「楽しい」には静かな静けさを伴うような楽しさも含まれているし、しみじみとした楽しさも、じんわりとしたものもそうだ。でも、どちらにしろ「楽しい」は苦しい状態ではない。楽しいのだから苦しくはないのだ。もちろん楽しくするために一時的に高い負荷をかけて、そこから解放感として楽しくなるという道はある。けれど、それだってエンドレスにいつまでも苦しい状態が続くわけではない。苦しいとしても意味のある苦しさなのだ。
 わたしの人生、楽しいでいっぱいにしたいな。人からどう思われるか、ではなくて、自分が心から楽しいと思えているかどうかを選択の基準としていきたいな。
 自分に問う。「楽しい?」

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