バガヴァッド・ギーターで行きつ戻りつしながら思うこと

ヨガ
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 わたしは凡人で普通の人だから、何か達観できているわけではない。美味しい御馳走を目の前にすれば、苦しくなってもさらに食べてしまうし、欲しいものだって次から次に手に入れたくなってしまうし、美しい女の人を見れば、手に入れたいとか思ってしまう。
 そんな凡人なわたしではあるものの、読むと何か心がスーっと穏やかになる本がある。それが『バガヴァッド・ギーター』という本で、この本を読むと何か心が鎮まるんだ。スーっとまるでヨガをやったかのような感じに近くなる。
 この世界、現代日本のこの社会を見ていて思うことは、欲望をかなえることがとにかく素晴らしくて、何よりもそれが至上の目的とさえなっているということだ。わたしは最近テレビを全く見ていないのだけれど、それでも以前見た時にはテレビコマーシャルのマシンガンみたいな立て続けの宣伝に圧倒された。何かで(おそらく本で読んだ)聞いた話に、最近のインドは瞑想の文化が脅かされているらしい、とのことで、その原因が西洋からやってきたテレビコマーシャルだと言う。そう、瞑想で穏やかに自分の内面を見つめようなんていうあり方と逆行するのは言うまでもないことで、とにかく欲望を生み出して、煽って消費させる。そんな状態で静かな瞑想ができるわけはない。
 そんなことを批判的に言いながらも、気が付くとわたし自身もそれに絡め取られそうになっていることに気付く。ネットの通販サイトでショッピングカートに大量の欲しい物を入れてしまっている。もちろん、それから、はたと気が付いて我に返るのだけれど、なかなかこの仕組みというか、欲しいと思わせるのは巧みでよくよく注意していないとその波に飲み込まれてしまう。ちなみに、昨日の新聞はすごかった。何がすごいかって言うと、新聞の記事ではなくて、新聞に織り込まれてきた広告のチラシの量。半端じゃないくらいの分厚さで、うちの新聞受けにかろうじて何とか入ったみたいな感じで、あまりにもぎゅうぎゅうだったから、取り出すときに新聞がひっかかって一部破れてしまったくらいだ。
 そんな欲望をすべて叶えることを良しとするこの社会で、バガヴァッド・ギーターのような生き方をしている人というのはまれだと思う。ほとんどの人は欲望に身も心も持って行かれていて、どうしたらお金をたくさん手にすることができるか、そしてその手にしたお金で次はどんな欲望を叶えようかと躍起になっていてそのことばかりを考えている。
 それに対してバガヴァッド・ギーターの説く教えは非常にラディカルだと言えるかもしれない。ギーターはすべては平等だと言う。土塊も石も黄金もすべて同じなのだ、と。そ、そんな~って感じに思う人が多いだろうと思う。「わたしはブランドのバッグとか宝石とかを買うためにこんなに死に物狂いで働いているのにその言い草は何なのよ」と言いたくもなってくるだろう。しかし、聖者というか、本当に心の澄み切った状態にある人から見たらすべて等しくて平等なのだ。また、石とか黄金などの物だけではなくて、この世で起きるすべての出来事も平等なのだと言う。好ましくないことも好ましいことも、成功も不成功も、価値あるものもそうだとは思えないものも、みんな平等だと見る。この視点というか、見方ができる人ってありとあらゆる執着を手放せているがゆえの境地なんだろうなと思う。普通の人はそんな風には到底思えない。いい結果が出れば最高の気分で嬉しくなり、悪い結果が出れば「何でなんだ」と悲しんだり怒ったりする。社会的な成功なりステータスを成し遂げることができればこれまた嬉しくなるし、成功することが叶わなければ落胆して落ち込んだり、成功している他の人を妬んだりする。それから、当たり前だけれど自分にとって価値あるもの大事にしてそれを失いたくないとどこまでもしがみついて手放そうとはしない。快を望み、不快を嫌悪する。しかし、そんな感じだといつまで経っても平穏な状態は訪れない。まさに一喜一憂みたいな感じになってしまって、欲望や自分の感情にどこまでも翻弄される人生を送ることとなる。それに対し、ギーターの教えはものすごく達観していてただ物事をありのままに見ている。もしかしたらこの澄んだ眼差しにとってはすべてはただあるだけのものとしてしか見えていないのかもしれない。ある。ただ、ある。それだけで、それ以上でもそれ以下でもない。だから、ただある(存在している)物事に対して色眼鏡をかけたりしないで、さらには価値をくっつけたりもしないで、あるがままに静かに眺めている。それがどこまでも徹底された時に見えてくる風景や景色。嬉しくも悲しくもなければ怒りもない。ただただ穏やかで静かで澄み切っている、そんな境地。
 仮にこういうあり方をすべて無視して欲望充足第一主義で突っ走ったらきっとどこまで欲しい物を手に入れても、自己実現をどこまでも果たしていっても、それでも渇きはなくならなくてどこまでも渇き続けるんだろうなと思う。欲望というのは言ってみれば、塩水とか動物の脂肪とか砂糖みたいなものだから、どんなにそれを追い求めていっても満たされないんだ。もちろん、だからと言って全ての欲望を捨てたら人間は死んでしまうから最低限の生きるための欲望は必要だと思う。でも、塩水や動物の脂肪、ならびに砂糖みたいなものをそれがおいしいとか快感だからと言ってどこまでも飲んだり食べたりし続けたらその人は病気になってしまって体もボロボロになってしまう。
 こんなことを偉そうに言いながらも、わたし自身はまだまだだと思っていて、気を抜くとすぐに欲望のマーケットに絡め取られてしまう。で、またバガヴァッド・ギーターを読んで戻ってくる。つまり、行きつ戻りつといった感じなのだ。こんな調子で1歩進んで2歩下がる、みたいなことをやっていたら、いつまで経ってもらちが明かないのかもしれない。進んではいかないのかもしれない。でも、それすらも平等の境地で眺めるなら、まぁ、それはそれで仕方がないんじゃないかとも思えてくる。すべてが平等。石ころも黄金も、好ましいこともそうではないことも、価値あるものもそうとは思えないものも。そう考えると、ただ何もない平原を静かな風が吹いている。そんな景色、あるいは波風一つなくて静かに澄み切っている湖。そう、わたしが求めているのはそんな境地であって、それこそが求めてやまない平安なのだ。
 わたしがこれからどこまで澄んでいけるのか、それは分からないし未定だ。でも、この煩悩を高速で満たし続けるような世の中で、こうした静かなあり方を知ることができたのは有り難いことだなぁと感謝さえしている。急がず焦らず、わたしの道を一歩ずつ進んでいこうと思う。おそらく今世では悟れない。ま、続きを来世でやるくらいの気持ちでいいかなぁ、と。それとも生まれ変わりの来世なんてなくて、キリスト教の通りに天国へと直行するのか、それは未定。ま、なるようになるさ。なるようにしかならないんだからね。やれることをやってぼちぼちやっていこうか。うん、それだけだよ。



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