あなたはどうしたいの?

いろいろエッセイヨガ
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 昨日、ヨガ教室へ行ってきた。8月はお休みだったからおよそ1ヶ月ぶりの教室だった。が、何が起こるのか分からないのが人生。何といつも教えてくださっている先生がお休みされたのだ。で、代わりに代理の先生が来てレッスンをしてくれた。
 その代理の先生はすごく明るい人でとにかくレッスンが明るく楽しい。その先生は前にも1回か2回ばかり代理で来てくれたことがあったからわたしはその先生のことを覚えていた。
 わたしはその先生が代理で来てくれた前回、ヨガのレッスンが終わった後に話をしたんだ。そうしたら「人生は一度きりしかないんだから楽しんだ方がいいよ」と言ってくれた。
 で、今回(昨日)もレッスンが終わってから話をしにその代理の先生のところへ行ったら、数少ない男性だったからなのか、それともわたしが若かったからなのか、その理由は定かではないけれど、わたしのことをしっかりと覚えてくれていた。「あれからどう?」と聞かれて、わたしは「朝散歩をするようになってから調子が良くなりました」と近況を報告した。それからさらに「仕事の方はどう? 順調?」とわたしが仕事をしているように見えるのか聞いてくる。「わたしは精神障害者なんです」と答えたわたし。嘘はつきたくなかったし、この先生は代理の先生だからこれから毎週会うわけでもない。巡回講師みたいな感じだったから、まぁ別に本当のことを言ってもいいか、と思ったんだ。そうしたら多少驚きながらも(意外な展開だからね)、「全然見えない」と言う。
 何かその先生と話をしていると何かにその先生が追われているんじゃないかというような感じがしてくる。焦っているというか、何か悩んでいるような、じりじりした感じがした。それを感じたものだから「先生大変そうですね」と一言わたしは言った。すると、次から次にというほどでもないけれど、結構ポンポン、ポンポンその代理の先生は自分のことを話し始めた。わたしが精神障害者だということを告白したことによって距離が縮まったからなのかもしれない。
 その先生は今年の7月に義理のお父様を亡くされていた。それも先生が家で介護をされていたようで、おむつ交換なんかもしていたと話してくれた。言うまでもなく、まだ気持ちの整理ができていなくて当然だ。でも、先生はそんな様子は微塵も見せないで明るく楽しくレッスンをしてくれた。でも、そのレッスンを受けている時に何となく違和感のようなものをわたしはかすかにだけれど感じたように思う。何かちょっと明るく無理をしているっぽいな、みたいな。というか、前回のような底からの明るさが今回にはなかったのだ。そうか、やっぱりとわたしは腑に落ちたのだった。
 そして、その先生は哀れな精神障害者のわたし(と見えたのだろう。わたしは自分のことをそんな風には全然思っていないのだけれど)に次から次にアドバイスをしてくれた。何だかそれが今一つわたしの心には響かなかったのだけれど、「あぁ、この人はわたしのことをどうにかしてあげたい。困っているようだから助けてあげたい。少しでも力になりたい」と思ってくれているのだな。彼女なりに一生懸命考えてくれているんだな、とアドバイスの内容はともかくその気持ちが何だかとても嬉しかった。
 わたしは時々、精神保健福祉士のWさんと電話で話をさせてもらっているので相談のプロというものがどういうものかということを知っている。プロはしっかりと状況を見極める。そして、ここぞというところでビシっと的確なカチっとはまるアドバイスをするのだ。安易に相手の状況も見ないでアドバイスの大量生産はしない。さらには場数を踏んでいるので多少のことでは動じないし、自分自身の不安だったり無力感をカバーするためにアドバイスを次々にしてしまう、ということもない。
 でも、わたしは何もみんながみんなWさんのようにアドバイスしなければならないとは思わない。ヨガの代理の先生のように矢継ぎ早にアドバイスをしてしまったとしても、何もその人はそれでお給料をもらっているわけではないし(ヨガについて質問されて的確に答えられないのは問題だけれど)、そもそもこれは人生相談的なことなのだ。まぁ、人生はヨガみたいなものだと考えるのであればこの先生のアドバイスはまずいな、ということになってしまうけれど、わたしはそんな、人のために一生懸命になれるその先生の姿がとても尊いと思った。むしろ無関心で距離を置くよりはいいんじゃないかと思ったくらいだ。
 わたしは母と暮らしているわけだけれど、「どうしたらいい?」と時々母から聞かれることがある。そんな時わたしは「お母さんはどうしたいの?」と逆に聞き返す。そうすると母からは適切な答えが返ってくることが多い。そして、「こうしたらいいと思っている」という答えに対して「いいんじゃないの」と言ってみたり、それではちょっとうまくいきそうにないと思った時には「それはちょっとやめた方がいいんじゃない?」とまた聞き返して判断をあおいだりする。
 どんなに自分がないように見える人でも(母がそうだというわけではない)「あなたはどうしたいの?」と聞けばそれなりに希望なり方向性はあるもの。ただそれが自分自身の中でうまくまとまっていなかったり、考えるのが面倒だったりしているだけで、ちゃんと自分自身の考えはある。最近思うのは、答えは自分自身の中にあるのではないか、ということ。答えはある。ちゃんとわたしの中に。だから、誰かからアドバイスを求められたとしても、その求めているその人の中に答えはあるんだ。しっかりとあるんだ。だから、アドバイスをする必要がないことが多い。ただ、自分はこう思うとか、こうしたいんだけどそれについてはどう思う?、という質問には素直に自分の意見を「わたしの意見だけれどね」と前置きした上で言えばいい。
 でも、そんな風にスマートに振る舞えなかったとしても一生懸命にその人と向き合えば、その一生懸命さは伝わると思う(まぁ、人にもよるけれど)。少なくとも無関心だったり、どうでもいいと思っているとは受け取られないはずだ。それは不器用なのかもしれない。的外れなアドバイスの大量生産をしているだけなのかもしれない。でも、そんな不器用な人が好きだという人もいる。となると結局最後はは相性なのかもしれない。ある人にとってはいいことがまた別のある人にとってはいいどころか絶対ダメだったり、なんて言ってしまっていいのかどうか分からないけれど。
「あなたはどうしたいの?」と聞かれて「あなたが指図する通りにしたい」などと言う完全従属型の人というのはあまり、いや、ほとんどいないだろう。「教祖さまのおっしゃる通りで」みたいな、ね。もちろんその教祖さまが指示した通りに行動して出た損害や損失について、その教祖が責任を取るのであれば「わたしの言う通りに従いなさい」と言うのもありではないかと思う。でも、自分以外の誰かの人生についてすべての責任を負うなんてことはできないはずだ。それができるのは神様くらいなものだろう。
 答えはその人、その人の中に、一人ひとりの中にちゃんとある。だから、自分にも他者にも「あなたはどうしたいの?」と尋ねるようにしたい。で、その答えを受けた上で「じゃあこんな手助けをしようか」と言えたら最高なんじゃないかなと思う。不安になって相手をどうにかしてあげたいと思ってしまった時、この言葉を思い出したい。「あなたはどうしたいの?」とね。



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