良しと思えるかどうか

いろいろエッセイ
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 今朝は寝坊した。寝坊したといっても6時半くらいだったのだけれど、それでも寝坊した。5時に目覚まし時計をかけておいたものの、アラームを切って二度寝してしまったのだ。まぁ、人間はなまものだからいろいろある。が、それにしても寝坊してしまい、今日は朝散歩ができなかった。
 そのせいなのだろうか。それとも別の理由によるのだろうか。どうも頭が冴えない。気持ちがノってこなくて実はこの執筆も嫌々ではないものの、さぁ書きましょうという感じではなかった。
 最近思うこと。それはすべてのことにおいて、というか人生は良しと思えるかどうかだということ。このシンプルな考え方に最近たどり着いた。つまり、良しと思えればそれこそ幸せなわけだし、そう思えないのであれば苦しくなったり、いやな気分になる。何だ、そんな当たり前のことって思うかもしれない。でも、最終的には突き詰めるとこうなると思うんだ。
 わたしは周りから見たら何にもしていないように見えるかもしれないけれど、それでも試行錯誤を繰り返してきた。そして、何をすれば幸せになれるのだろうと、その何かをひたすら求めて探してきたように思う。で、いろいろ探してきて、現時点で思うことは自分の心のあるところにしか幸せはないということ。それはつまり、良しとできるかどうかということなのだ。ってくどいかもしれない。でも、このことはいくら強調しても強調しすぎだということはない。
 わたしは自分の外側に幸せを求めていたし、求めてきた。でも、自分の外側には幸せはなかったんだ。たしかにそうは言っても、外部というか、自分のまわりの世界を充実させたり豊かにすることは大切なことだ。おいしい食事を作ったり、いい人間関係を築いたり、安定した暮らしができるように環境を整えたり、いろいろな刺激を受けることができるようにする。でも、たしかにそれらも大切で侮れないことではあるものの、最後には自分の心次第なんだ。そういう結論にたどり着いた。だから、どんなにお金持ちになってリッチな暮らしができたとしても、いい人間関係を得られても、いいパートナーが得られても、などなど、とにかく自分の外側をどれだけ豊かに彩りあふれるものにしたとしても、それを良しとできなかったらそれはやっぱり不幸なんだ。これは足るを知ることができるかどうか、ということで、どんなに何かを手に入れたとしても、まわりから見てどんなに恵まれた環境の中にいようとも、それらを「けっ。こんなんでやってられるかよ」と思うのであれば意味がないのだ。
 わたしは今まで何かを手に入れることによって幸せも手に入るものだと誤解していた。でも、幸せは自分の心にあり、自分が決めるもの。そのもう既に持っているものだったり、これから手に入れようとするものを良しとできるかどうか。要するに足るを知らなければ、1億円あっても、いや100億円あっても不幸なんだ。
 だから、わたしの場合で考えてみれば、ヨガの資格を取りヨガの先生になったらそれで自動的に幸福になれるわけではない。働いて暮らしに余裕ができたらということでも、素敵なパートナーを手に入れればそれでいいというわけでもない。そうではなくて、そうした出来事だったり環境だったり物だったりを「あぁ、幸せだなぁ」と思えた時に幸せを手にすることがはじめてできるんだ。何かを手に入れて喜びを感じる、その自分自身のそれらを良しと思える心がなければならない。ヨガの先生になれても、働いたことによって暮らしの余裕ができても、魅力的なパートナーを手に入れても、「こんなんで満足できるかよ」なんて思ってしまうのであれば、きっと何をやっても、何を手に入れても、どんなに成功できたとしてもきっと満足できないし、幸福感を感じることはできないだろう。そうなれば常に不平不満を感じる人生になるだろうし、きっと楽しくはない。
 また、今は何かを手に入れた場合を考えてみたけれど、もっと言うなら、何も手に入れなくても幸せを感じることはできる。自分が既に持っているものに喜びや感謝を感じることだってできるはずだ。何かを手に入れなければ、さらには手に入れ続けなければ幸福感を感じられないのであれば、そのために絶えず新しい何かを手に入れなければならなくなってしまう。さらには、その新しく手に入れようとするものがどんどん高価なものへとなっていけば、どこかで相当なお金持ちでもない限り力尽きてしまう(そのためにはたくさん働かなければならないから)。
「わたしは何もそれらしい価値ある物は持っていないからとてもではないけれど、現状に満足することなんてできない」という人もいるかもしれない。でも、そんな人でも持っているものがあるじゃないですか。どんな人でも持っているもの。はて、何でしょう? それは生きていること、つまりは命です。どんな億万長者もどんなに貧しい人も、どんなに健康な人も瀕死の状態になっている人もみんな持っているもの。それは命。
 自分の胸に手を当てて、胸の鼓動を感じてみる。自分の呼吸に意識を向けてみる。すると、「あぁ、生きているんだなぁ」と思うでしょう? これってすごい有り難いことですよね? というか生きているからこそ、毎日があって、日々のドタバタ劇だってあるわけなんだし。もしも命がなくなったら、もうお墓の中。骨になって眠ってる。この際、永遠の命とか来世とか生まれ変わりとか、そういうことは抜きにして単純に考えてみれば、今こうして生きられていることってすごくすごくありがたいこと。しかも、日本は豊かな国だから生活保護などを適切に受ければ、食べる物が買えなくてのたれ死ぬこともない。と、今ふと思い出したんだけれど、ある日、ヨガ教室の先生にわたしが「鳥は無一物なんですよね」と気楽な感じで言ったら、「鳥は自給自足みたいなものだから、生きるか死ぬか毎日サバイバル。人間に生まれてこれたことってすごく幸せなことだよ。ご飯だってちゃんとあるわけだし」と返されて、あぁ、人間として生まれてきたことって有り難いことなんだなぁとその時、しみじみ思った。
 つまり、足るを知り感謝する。それができればその人は何か新しいものを手に入れなくても、ただ生きているだけでもう十分幸せなんだ(最低限の衣食住は必要だけれど)。だから、何かを手に入れたからとか、何かを成し遂げたから幸せになれるということではない。それらでしっかりと足るを知ることができて満足できたからその人は幸せになれたんだ。前にも書いたかと思うけれど、幸せって本当、主観的なものなんだなぁと思う。だから、まわりから見て、何も持っていないように見えたり、何も手に入れていないように見えても、十分に幸せを感じることができている幸せな人というのはいる。反対に、物質的なものなんかを有り余るほど豊かに持っていて、日々何かを手に入れ続けているようにまわりから見える人が失意の底でのたうち回っているということもある。
 わたしは不幸な金持ちではなく、幸せな貧乏人でありたい。というか、ミニマリズムに出合ってからというもの、必要以上にお金を稼ぐことに意味を見出せないので、おそらくわたしが目指していくのは、幸せな貧乏人なんだろうとは思うけれど。
 乱暴な言い方かもしれないけれど、最低限の衣食住さえ確保されれば人は幸福になれるんだ(極貧でも幸福感を覚えている人はいるかもしれないけれど、それは苦しい)。あとはそれを幸せと自分自身が思えるかどうか。足るを知ることができるか、満足することができるかどうか。そして、感謝へと行き着き、感謝しながら死んでいけたらそれこそ幸せな人生だとわたしは思う。だから、何かを手に入れなければ幸せになれないとか、何かを成し遂げなければダメだなんてことはない。自分がそれを良しとできるか。ただ、その一点に懸かっている。まだ足りない、まだまだ足りないとどこまでも求め続ける人生ではなくて、今を良しとする。十分、今だって足りている。そう思える人生を送りたいなと思う。これはあくまでも個人的希望ですけど。



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