非暴力と菜食

ヨガ菜食
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 最近、変わってきたことがある。何かと言うと、蚊を殺すことにためらいを感じるようになったのだ。以前のわたしであれば、何のためらいもなく、何も躊躇することなく叩き潰していた。それが一瞬考えるようになった。で、殺さないでそのままにしておくことが増えてきた。そのせいで(って当たり前だけれど)わたしはぼちぼち蚊に刺されている。刺されればかゆい。これも当たり前のこと。でも、何だかひと思いに蚊を潰していた頃よりも心が平和だ。あの蚊を潰した瞬間に感じる、それも一瞬だけ感じるどす黒いネガティブな感情。それを感じないのが何だか心地いい。
 ってなことを書くと「偽善ですね」と言われることは予想している。自分を善人だと思っていたい。自分だけは清くいたい。それこそ偽善であって、そういう人を偽善者と言うのだとわたしの考えを批判しようとする人はツッコんでくることだろう。でも、そう言われてしまうのだったら、それはそれで仕方がない。本当のことなのだから。自分だけ清くいたいだなんて虫が良すぎる。その通り。反論はいたしません。
 わたしたちが生きていくために必要なこと。それは殺生だ。毎日、目に見えているかどうかは別としてたくさんの命を奪っている。奪って殺している。何をするにしてもわたしたちは殺さなければならない。飲み水だって飲めるようにするには水の中の微生物を殺さなければならないし、歩けば小さな虫を踏み殺している。そして、何よりもわたしたちが生きていくためには食べなければならない。食べるということはまさに殺すことであって命を奪うこと。命をいただいているのだと感謝したところで、殺していることに変わりはない。植物を殺し、動物を殺している。この当たり前の事実というか、現実に向き合おうとする時、わたしはどうしたらいいのか? 20代前半のわたしは本当に悩んだのだけれど、それから何も考えなくなっていた。別に殺してもいいじゃないか、と開き直って一応、問題は解決したようだったからだ。
 それがまたヨガをやり、インド的な思考にふれるにつれて、この問題を蒸し返すようになった。アヒンサーという非暴力を実践するとしたら、どういう生き方をすべきなのかとわたし自身、問いかけられたのだ。ヨガを単なるフィットネスとかエクササイズではなくて、真面目にやろうとすれば必ず突き当たる問題。それが非暴力というあり方なのだ。
 非暴力ってそんなん無理じゃないですか? そう思ってしまう。でも、完全な非暴力は無理だとしてもその方向に近付けていくだけでも大きく前進するんじゃないか。そんなことをわたしは考えた。非暴力が無理だから、と言って暴力を振るいまくるのではなくて、暴力をなくす方向を目指す。完全は無理であっても減らそうと努力する。これってすごく大事なことではないかと思うんだ。
 ヨガでまず守るべきとされているヤマとニヤマという教えがあるんだけれど、その中の一つがアヒンサー(非暴力)なんだ。アヒンサーを実践する。これってすごく難しい。どんな時も非暴力でいることはまさに至難の業だ。攻撃されても反撃しない。悪意を向けられても悪意を返さない。人を傷つけない。暴力だと思われることはしない。うむ、本当これは素晴らしい教えだと思う。イエスさまも同じようなことを言われていて、どこまでも非暴力だったんだ。
 アヒンサー(非暴力)を考えていった時に、必要のない暴力をまずはなくしていきたいと思った。必要のない暴力。それはわたしにとっては肉食ではないか。肉食で得られるのは動物性のタンパク質だけれど、別にどうしてもそれを摂らなければならないということもない。豆類、穀類、ナッツ類で摂ることだってできる。動物性にこだわらなくても、植物性のタンパク質だっていいのだ。
 もしも、だけど。肉食をしたいと思ったとしよう。牛、豚、鶏、魚のうちどれかを食べたいと思ったとしよう。この場合は牛肉を食べたいと思ったということにしておこうか。そうしましたら、目の前には生きた牛さんが連れてこられました。「さぁ、あなたが食べたいのであればご自由にどうぞ」と言われた時、わたしはどう思うかと考えたら、そこまでして食べたいとは思えないんだ。その牛さんを殺してまで、そこまでして、どうしても食べたいわけではない。牛肉を食べられるなら食べたいけれど、何もどうしてもってわけじゃない。これは、牛以外の豚、鶏、魚にしたって同じことで、わたしは何も彼らを殺してまで食べたいわけではないんだ。だったら何も殺す必要とかそもそもないんじゃない? 生命維持に必要なタンパク質は植物から摂れるんだし、何もどうしてもそれらを食べなければ生きていけないわけでもない。それにコスパのことを言うのも何だけれど、肉食よりも菜食の方が断然コスパいいし、環境にもやさしいしね(家畜を食べられるまで育てるには家畜の飼料として大量の穀物が必要で、またその穀物を育てるためには大量の水が必要だから環境にやさしくない)。
 そういうわけで、あえてわざわざ動物を育てて、そして、それを殺してまでして食べる必要はないように思うのだ。本当は植物を食べる菜食にも罪悪感があるのだけれど、それはわたしが生きていくためには必要なことなので植物たちに許してもらうこととしよう。
 ちなみに、ヨガの先生には菜食の人が多いらしい、という話をネットで読み、たしかにそうかもなぁと思ったのだった。肉がナチュラルな食べ物ではなくて、自然志向を目指す彼らに合わないとか、ヨガをやる上で菜食の方が向いているから、とか実際的なところもあるのだけれど、わたしが思うにそれだけではなくて、アヒンサー(非暴力)を彼らなりに実行しようとしているってことなのかもしれないな、とその観点からも腑に落ちたのだった。ナチュラルにキラキラを目指すのであれば、そのいい空気を循環させていくためには肉食というあり方がそぐわないのかもしれない。動物を殺して、その肉を食べるというあり方がヨガの思想とマッチしないのではないかな。
 今日から「はい、肉食はやめます」というのはなかなか難しいと思うから、まずは減らしていく。そして、そのやめる方向へと向かっていく。そんな調子でやっていけたらと思う。これが偽善であることは重々承知の上で、それでも自分の信じるところに従ってやっていきたい。新しい展開ですね、はい。

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