菜食生活5日目

ヨガ菜食
この記事は約5分で読めます。

 どうも、星です。皆さん元気に過ごされていますか? わたしはわたしで元気にやっております。
 さて、菜食生活、つまりベジタリアン生活を始めて5日目になるのでご報告を。
 まず、調子がいいのかどうか。いいとか悪いとか、そういう感じではなくて、頭の中がスーっとしております。頭の中がフラットになっていて、平ら~みたいな感じ。これも、それも肉食をしていないからなのだろう。静かな波風立っていない穏やかな湖のようなそんな感じなんだ。というか、闘争本能ゼロです。確実に言えることは闘おうっていう気が全然起きない。ただ、スーっとおだやか~な空気が流れている、以上、みたいな。お金持ちがどんなに贅沢に遊び暮らしていたとしても、そんなことはどうでも良くてただわたしそのものがおだやか。お金持ちさんはお金持ちさんで楽しくやっていてくれればいい。わたしはわたしの道を歩いていますよ~、っていう感じかな。妬み、怒り、嫉妬、失望。そういったネガティブな感情もほとんどわいてこない。何かそれらを手放している感じ。だからなのか、幸せ絶頂というのも、不幸のどん底というのも今のわたしの状態ではない。ゼロ。嬉しくもなければ、悲しくもない。落ち込んでもいない。ただただ、静かでぼちぼちやっている。やることやって、もっともっとみたいな執着というか貪欲さがなくて、実にスマートな感じ。
 今朝、起きて少し経ってからヨガをやった。朝ヨガ。そのせい、というか、それが大きいのだけれど今日はなおさら静かな空気がわたしの中を流れている。今はちょっと執筆し始めて活動的になりつつあるけれど、それでも静か。
 やっぱり食べているものは精神状態をも作る。脳内の神経伝達物質だって食べたものからできる。だから、もしネガティブな感情に悩まされているのであれば、心理療法的なアプローチもいいとは思うけれど、それと並行してかそれ以上に食事を変えるというのは効果的な方法だと思う。実際、わたしは肉食をやめたことによって、さらに穏やかな人間に変えられつつある。
 動物を殺さない。なんて聞くとそれは偽善であり自己満足でしかない。現に、それ以外の植物だったり、何だったりを殺しているじゃないか、という反論が来る。でも、完全に殺すのをやめるには自らの生命活動を終わらせること以外に方法はないけれど、それが無理だとしても不必要な殺生はしない、ということはできるはずだ。生きていくために食べなければならないもの。それは仕方がない。でも、特に必要がなくて、いわば贅沢品のような肉を食べるということは別にそれを食べなくたって生きていける。と言いつつも本当に食べるものを必要最低限にしなければならない、などと言ってしまうのも行き過ぎだと思う。でも、殺す必要がないのにあえて殺すのは良くないんじゃないかって思うんだ。むやみやたらに殺す。自分の楽しみのために殺す。わたしは偽善者なのかもしれない。でも、少しであっても命を奪うことを減らせればそれって意義があるんじゃないか。
 最近、蚊を殺さなくなった。むやみに殺さなくなった。偽善と言われるのは承知の上で、でも何だかこれがとても気持ちがいい。蚊が飛んでいると、「あぁ、飛んでるな」と放っておく。さすがに手で軽く払いのけたりはするけれど殺しはしない。蚊だって生きているのだから。
 先日、菜食生活が始まってたしか4日目くらいだったと思うのだけれど、以前買った鶏肉が冷蔵庫の中に残っていたんだ。カレーを作って食べるのが好きなわたしは母が喜ぶだろうと思ってチキンカレーを作った。もちろん、わたしは肉は食べないようにして汁と玉ねぎの具だけを食べるつもりで、それでも作ったんだ。その作っているとき、以前だったら何も感じなかったのに、その時に強烈に感じたこと。それは鶏肉を切っていた時に、すごく今自分は残酷なことをしている、という気持ちになってきて、少し気が滅入ってしまったんだ。鶏の生肉を前にして、すごくいけないことをしているような、そして、その肉がすごくグロテスクに見えてきたんだ。この変化。ささいなことのようだけれど、この変化がわたしが変わってきたということなんじゃないかなって思った。鶏肉を前にして気持ちが悪くなる。罪悪感を感じる。これって偽善まっしぐらなのかもしれないけれど、わたしの中の感覚が研ぎ澄まされてきたっていうことだとも思うんだ。前だったら何も感じなかったことを感じる。言ってみれば、以前は臭いと思わなかったものを臭いと感じる。それは感覚が研ぎ澄まされてきたということ。菜食生活を始めたことによって、そしてヨガをさらに集中的にやることによって、そうした繊細さが磨かれてきたように思うのだ。もっと磨かれていったら植物を食べることさえも嫌悪するようになるかもしれないけれど、まぁ、そうならないことを願いつつやっていきたい。
 わたしは今、自分自身を浄化している。でも、わたしはどんなにきれいになっても本当の意味できれいになることはできない。生きていくためには菜食であっても生き物を殺さなければならないし、それ以外にも無数の命を毎日奪っているからだ。けれど、それがどんなにささいなことであっても、自分自身を浄化して清めていくことはできる。それすらも全くしようとしないで、もう自分は汚いのだから、何をやってもきれいにはなれないのだからと開き直ってしまう。それはそれで一つの生き方だとは思う。でも、わたしは自分自身をきれいにして浄化して高めていきたい。そんなことはたかが知れている。それをやったところで、泥まみれの程度が少し良くなるだけのことだよ。キリスト教的な反論を加えるのであればこのように言うこともできるだろう。そうした反論が来るだろうとは思う。でも、わたしは自分自身を清く美しくしていきたい。しなやかに美しく自分なりの花を咲かせていきたい。
 ヨガと菜食生活。ストイックだ。そして、この先にどのようなわたしが待っていて、どんな世界が開けてくるのか。とても楽しみな星さんなのでした。

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました