わたしの瞑想の目的地

いろいろエッセイヨガ
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 今日は日曜日。教会の礼拝へ出掛けるまであと1時間あるかないかというところ。しかし、わたし自身モヤモヤしてしょうがないのでなかば備忘録的な感じで記しておくこととする。
 飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』という本を今読んでいるのだけれど、本当に今までわたしは瞑想についてなーんにも知らなかったんだなと思った。
 マインドフルネス(いわば瞑想)には大きく分けて二種類あるとのこと。この本では「臨床マインドフルネス」と「ピュア・マインドフルネス」の2つにまず分けて、この2つが決定的にというか目的地が違うことを挙げている。臨床マインドフルネスは世俗の生活においてうまくやることを目的としているのに対して、ピュア・マインドフルネスはそれを目的とはしていなくて悟りとか解脱を目的としている。後者では、「何かを欲してそれを得られた時に感じる幸せではなくて、何も求めない時に感じる幸せこそが本当の幸せだ」という認知(同書p56)とのこと。だから、瞑想すればうまくいくということではなくて、うまくいこうがいくまいが気にならなくなる、ということらしい。(同)
 わたしはこうした見取り図も何もないまま、知らないまま、ひたすら瞑想を深めて悟りへの道を突き進もうとしていた。危なかった。
 瞑想をする上で大切なことは目的をはっきりとさせることとこの本には書いてあって、それを誤ると瞑想難民になってしまうらしいのだ。この世で、俗世でうまくやることを目指して瞑想を始めたものの、うまくやるどころか体調を崩したり、精神的な不調に陥ったりするケースが後を絶たないとのこと。そもそも、悟りを得て、かつこの世で成功しようなどというのは両立しえないものであるとのことで、両者は異質なものなのだなということが分かった。
 わたしが直感的に感じたことはやはりそれなりに正しかった。それはこの世界が、わたしも他者も含めたこの世界が単なる現象でしかなくて、波のようなものでしかないとしたら、何でこの世においての成功を求めるのか。より幸福を増進させようとキラキラを目指すのか分からなくなってくるのだ。この世は、世界は波なんだろう? 蜃気楼とか幻とかいくらでも別の言葉では言えるけれど、あるように感じているものの実在はしていないんだ。その実在していないもののために、あくせく汗を流して、その実在していない世界の中での成功を目指す。それって不毛というか、無意味なんじゃないの? 世界は波でしかない。打ち寄せてはまたもとの海の中に消えていく波でしかない。となると、本当の平安とは静寂であり、再び波として現れないことではないのか。そこには感情も思考も知覚も、水面を波立たせるものは何ひとつなくて、ただただ穏やかで静か。いるとしたら、神様がその穏やかな海を眺めておられるくらいで、そこには何もない。
 平安とは無なのではないか、と思い始めたわたしだけれど、教会の礼拝へと向かうのだった。矛盾しているのかな? これって完全にキリスト教的っていうよりはインド的、仏教的な世界観だな。
 自分自身、今後の行く末をじっくりと考えていきたい。目的地をしっかりと見定めて、ね。

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