ヘブライ語を学ぶ前に

キリスト教エッセイヘブライ語
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 もうかれこれ2ヶ月あまりになる。何がかと言うと、ヘブライ語をさぁやろうとまた再開してからがだ。しかし、人間の心は移ろいやすいもので、またもや減速し始めていて、母の受洗もあって気持ちが落ち着かなかったこともあったのだけれど、それにしてもここ一週間あまりはヘブライ語の学習時間がゼロという日が続いた。わたしは人間なんだもの。人間なんだからアップダウンがあるのは当たり前、と言いたいところ。けれど、そういうやる気の減退ではなくて、何というか自分にとってイエスさまという存在が何だか遠くへ行ってしまっているような、そんな感じがしてきていて、イエスさまに近付いていこうという気概がわいてこないのだ。遠くにいる(ようにわたしには感じられる)イエスさま。まるでわたしを遠くから傍観しているだけのようなイエスさま。教会の教え、というよりはキリスト教の教えではイエスさまは共にいてくださるということになっているし、それをわたし自身も信じてきた。けれど、それが感じられない。信仰のスランプ?
 いやいや、それは至極当たり前のことなのだ。なぜかと言えば、最近聖書はご無沙汰で全くほとんどと言っていいほど読んでいないからだ。わたしは他の読書、つまり防衛とか宇宙とかその他もろもろのことに気を取られていて、そっちの方に時間を割いてばかりいて、もう聖書は分かっていますと言わんばかりの態度を取っていたのだ。今、特に聖書読まなくてもいいよね。それよりも、今のわたしにはその他の読書が必要なんだ。言語化こそしていなかったものの、そういうことを何となく思うというか感じていた。
 クリスチャンの基本。それは聖書を読み、祈ること。分かっている。分かってはいるんだけれど、その当たり前の基本的なことがおろそかになっていたわたしなのだった。
 ヘブライ語を勉強するにしてもイエスさまの使われていた母語(アラム語。アラム語はヘブライ語の親戚のようなものらしい)に近いということからも学ぶ意義があると思っていたわたしである。が、そもそもイエスさまへの憧れ、尊敬、知りたいという気持ちなどはやはりイエスさまに関する書物にふれている時間がほぼないような状況では当然薄れてくる。だからわたしはイエスさまに近付きたいとヘブライ語を再開したのだけれど、一番大切なイエスさまに関心を持ち続けて、自分自身の中心にする、ということができていなかったのだ。中心にするということはイエスさまに関することに時間を割くことに他ならない。やりたいことは他にもたくさんある。イエスさまのこと以外に時間を使いたいという誘惑が頭をもたげてくる。けれど、イエスさまに近付くために今のわたしに必要なことはイエスさまを生活の中心に置くことなのだ。何もそこまでしなくてもいいんじゃないの、という向きもあることだろう。でも、何というか聖書もろくに読まずにヘブライ語だけやってます、というのは本末転倒ではないのか。わたしは語学マニアかなんかで己の知識欲を満たしたいがためにヘブライ語を学んでいるわけではないのだ。すべてはイエスさまをもっと知りたいがため。もっと近付きたいがため。だから、イエスさまを熱烈に愛してラブコールを送るためには、イエスさまの言行録と言ってもいい四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ福音書)を熱心に読むしかない。神学とかいろいろあるけれど、それらはまずは聖書を読んでいてこその応用のようなものであって、基本は聖書であり、さらにその中でも一番重要なのが4つの福音書なのだとわたしは理解している。
 足りない。全然足りていない。聖書を読むことが足りていない上に全然なっていない。教会の礼拝で読まれる聖書朗読を聞いているだけというのはお粗末ではないのか。もっと、もっと聖書を読むんだ。読まなければならないじゃなくて、もっと読みたい。またわたしの中で聖書への熱意が燃え始めている。静かに静かにだけれど燃え始めている。
 いろいろと雑多な本を読んできたけれど、また一周回って聖書に戻ってきたみたいな感じがしている。わたしがクリスチャンとして信仰を持ち続ける以上、聖書を放り出したり捨てたりすることはできない。
 誰かに言うのではなくて、わたしはわたしに大きな声で「もっと聖書を読もうよ」と言いたい。他の人のことをとやかく言う前に(というかこんなんでは人に聖書を読めとか言えないだろう)、自分にもっと聖書を読もうコールを送る。
 やっぱり、何に時間を使うかというのは大きいものだと思う。その限られた自分の毎日の時間の中で何を優先させて、つまり何を大事にして何に重きを置いていくのか。結局、そこにかかっている。聖書を読むことに多くの時間を割くのであれば、それはその人にとって聖書が優先順位が高く重要だということを意味する。とは言えども、わたしにはやりたいことがあるから、一日中聖書だけを読んでいるわけにはいかない。ヘブライ語だってこれから気合いを入れてやっていきたいし、このブログの記事だってコツコツ毎日できる限り量産していきたいし、お料理だってやりたいし、防衛の勉強だってしたいし、宇宙も囲碁も……(続く)。
 やりたいこと盛りだくさんのわたくしですが、聖書を毎日きちんと時間を取って読む。落ち着いて聖書を読む。この営みを続けていけたらと思うのだ。そうしたらヘブライ語だってさらに熱心に勉強していけるだろうし、またそのヘブライ語の学びが信仰にもいい影響を及ぼしてくることだろう。で、ヨガは? アーユルヴェーダは? まぁ、それをメインにしないようにしてぼちぼちやっていこうと思っております。何せ、やると調子が良くなるからね。ま、そこんところはいいとこ取りで。って何か釈然としないね。はっきりとしないね、星どん。だって、調子が良くなるんだから~。イエスさまだってわたしが不調でいるよりは軽快に生きた方が喜ぶと思うし~(うじうじうじうじ)。
 最後の方はスパッとしなかったものの、聖書を読んでいくことを改めてやっていきたいと思う。新約聖書の福音書は手垢がついてボロボロになるくらいまで読み込みたいなぁ。イエスさまを救い主として一生従っていきますって宣言しているのがクリスチャンなんだから、やっぱりイエスさまはおまけであってはいけないのだ。イエスさまがわたしの中心にあって、行動の指針も倫理的な規範もすべてはイエスさまに照らし合わせてやっていく。それがクリスチャンという種族なのだと思う。言うのも憚られるけれど、わたしにとってイエスさまがまるでおまけか何かのようになってしまっていたんだ。ごめんなさい、イエスさま。あなたをわたしの中心にしっかりと据えてまた毎日をやっていきたいと思います。
 ヘブライ語を学ぶ前に新約聖書を、福音書をしっかりと読む。それが手垢まみれになり、ボロボロになるまで読み込む。その基本があってこそ、その基本的な態度があってこそのヘブライ語であって、そうした熱意をわたしは持ちたいのだ。
 大事な、大事なことに気が付いた。イエスさま気付かせてくださりありがとうございました。あなたを中心にしてやっていけたらと思う次第です。

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