小さなチャレンジ初めの一歩

いろいろエッセイ
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 人はとかく大きなチャレンジばかりに注目する。家を買ったとか、結婚したとか、子どもが生まれたとか、難しい資格をやっと取れたとか、大学に合格したとか、などなど大きなことしか話題にしないし、見ようとはしない。けれど、わたしは思う。小さなチャレンジもそれに匹敵するくらい価値があるのではないか、と。
 わたしが今年の夏、チャレンジしたことはいろいろある。まず、朝散歩を始めたこと。そして、それを皮切りに、ハローワークへ行ったことが続き、そして、それほど大きなことではないにしても、炊飯器でサツマイモをふかしたり、盆栽の入門書を買って読んでみたり、と何もしていないようでチャレンジはしているのだ。
 小さなチャレンジ。その結果得られる小さな、けれど侮れない成功体験。そうしたものが自分自身を支えてくれる。大きなチャレンジをドーンとやるのは見た目が派手だし分かりやすい。一方、小さなチャレンジはほとんど人目につかないし、分かりにくい。でも、着実に進歩していて前に進んでいる。それが何だか嬉しかったりもする。
 以前のブログの記事でわたしは、頑張らなくてもいいんじゃないかということを書いたかと思う。で、今日、本を読んでいたら、自分は頑張っていると思うこと自体がそもそも、そのことが本当にやりたいことではないのでは、みたいなことが書いてあって、たしかにそうなのかもなと思った。本当に好きなことだったりやりたいことだったら、言われるまでもないことはもちろん、率先して自然とやっているはずではないか、ということなのだ。
 ということはわたしの場合、ヨガが好きなことは好きなのだけれど、1時間ヨガをやるのが何だか億劫で大変に感じてしまうというのは、わたしの深層意識ではそこまでしてやりたいわけではない、ということなのかもしれない。本当にやりたかったら億劫になんかならないで、もうすでにやっているはず。たしかに、たしかにそうなんだけど。と、自分のヨガへの思いがあるべき観にとらわれているのかもしれないなと思ったりもする。
 進歩、前進、そして頑張るということ。それらは尊いもの。でも、根本から問い直すのであれば別にわたしはヨガをやらなくたっていいのだし、やめたっていいのだ。まさに自由。その上で、それでもやめられずにヨガをやろうとするのだとしたら、そこに何かがあるからなのだろう。そのきらめき、輝き。何かは分からないけれど「やりたい!」と思わせる何かがきっとあるのだ。自分のヨガへの姿勢というか、あり方を見つめ直してみようとふと思った。
 人は常に変わり続けている。それは肉体も精神も瞬間ごとに刻一刻と変化していて、常に流れるような川だということ。そして、その変化を大きくするものとしてチャレンジがある。チャレンジは人を変える。本当に変えていくものだと思う。何かにチャレンジしたことによって、世界が広がっていったりするのはもちろん、今までやっていたことをそのチャレンジを機にやめたりすることもあるからだ。というよりも、チャレンジは行動なのだから変わって当然なのだけれど。
 ところで、最近、サツマイモをよく食べるようになった。ミニマリストのしぶさんがサツマイモをよく食べるらしく、それにわたしも影響を受けたのだ。しぶさんの本によると、炊飯器でサツマイモを調理して食べるとのこと。で、実際やってみたら(「炊飯器 サツマイモ」で検索して作り方を調べてみた)めちゃくちゃ美味しかったわけです。特に初回なんて母と一緒にうなりました。作り方は簡単で、炊飯器にサツマイモとカップ1(200ml)の水を入れて普通に白米を炊飯する時と同じように炊飯器のスイッチを押すだけ。それだけ。それだけでものすごく美味しいふかしいもができてしまう。
 チャレンジには新しい発見と喜びがある。サツマイモの炊飯器調理にしてもやってみたからこそ、おいしいものを食べることができて喜びを味わうことができた。もしこれを何もチャレンジしないで「どうせできないだろう」とか「サツマイモを炊飯器でやってもきっと美味しくないから」などと言ってやらずにいたらこの喜びを得ることはできなかった。チャレンジする。そう、チャレンジしたがゆえに得ることができたのだ。このチャレンジするということはすごく大事なことなのだとサツマイモのことを通しても思った。
 でも、何でもかんでもチャレンジすればいいわけではない。明らかに誰が考えても100%失敗する。そして、最悪な状況になったり、取り返しのつかないことになる。そんな無謀だったり、大きすぎるチャレンジというのはやはり考えた方がいい。けれど、逆に石橋をたたきすぎて結局何もやらなかったというよりは、まずは小さな小さなチャレンジからやってみるのもいいんじゃないかと思う。失敗してもあまりダメージや被害を受けないようなそんな気楽なチャレンジがまずはいい。そして、そうした小さなチャレンジを積み重ねて、成功体験を繰り返していく中でスモールステップで段々と階段を上っていく。と言いたいところだけれど、何もすべての人が高い高いところまで上らなくたっていい。自分がこれくらいでいいなと思ったところでもちろんこれ以上ステップアップしたいと思えなければ何も無理してやらなくたっていいんだ。求めているものややりたいレベルは人それぞれ違うのだからそれぞれのあり方があっていいと思う。
 あともう一つのわたしの小さなチャレンジとして盆栽の入門書を買ったというのもあったのだけれど、これはちょっと読んでみたら自分が求めていたのとは違うなって思った。おそらくわたしはこれから盆栽の植木を買うことはおそらくないだろう。このように、かじってみて違うと思ったらもうそこで引き返したっていいわけなんだ。盆栽の入門書を買ったから何が何でも盆栽を実際にやらなければならないということもない。ちなみに、この盆栽の入門書は中古で360円くらいで、かじってみる上ではお手頃な値段だったように思う。何も最初から盆栽の道具なり何なりを全部揃えて、その上でやるかどうかを決めなければならないということもない。やりたいと思うか、思わないか、その直感を大事にしていけばいいのだし、最初からお金をたくさんつぎ込むこともない。しかし、盆栽の入門書を買ってみて良かったと思っている。盆栽をかじってみたことによって、身の回りの樹木に対する興味関心が以前よりもわいてきて、興味の幅が広がったのだ。景色と同化してしまっていた木々が以前よりも浮き上がって見えてくるようになった。
 ハローワークへ行ったことも決して無駄な経験ではない。とにかく、働く働かないはともかくとしてハローワークへ行き、そこのスタッフとやり取りできただけでも得たものはあったように思う。
 小さなチャレンジをしていくと人生が少し変わる。でも、少しだけれど確実に自分が望む方向へと変わっていく。もちろん、いつも思い通りに物事が進んでいくとは限らない。予想に反する展開になることだってある。けれど、それが人生。全部が全部思い通りに事が運んでいくのだとしたら何も面白くないし、それはとても退屈なことだよ。神様って全てのことをご存知だから退屈なのかな、なんてね。ちょい蛇足。ともかく、わたしはできるチャレンジからしていけたらと思って毎日暮らしている。そのチャレンジは小さすぎて微々たるものかもしれない。でも、その小さな小さな出来事が積み重なって、まず今が変わり、そして未来も変わっていく。さらにはそんな変わっていく未来と共に過去も何もチャレンジしなかった頃とは違う感じになっていく。変わる、変わっていく。チャレンジと共に。小さいか大きいかに関わらず、そのチャレンジという行動によって。だから、自分を変えたいとか何かを変えたいと思うのであれば、どんなに小さなことでもいいからまずはチャレンジしてみること。朝散歩はきついからまずは日向ぼっこを始めてみました。家計簿を付け始めました。散歩を始めました。自炊の回数を少し増やしてみました。何でもいい。まずは動くこと。小さなアクションでいいから動いてみること。そこから始まる。でも、今がそれで精一杯なら何も新しいチャレンジとかしなくたっていい。現状維持をすることだって立派だと思う。と言いつつも人間変わりたくないと思うのが正常だとも言える。変わらない。それはとても安全なこと。でも、もしも変わりたいと思うのなら、思うのならまずは最初の一歩を。
 その先には果てしない広い広い世界がきっと広がっている。そして、その世界はあなたを魅了するに違いない。



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